昨今、ストーカーが人身に及ぶ事件が取り上げられることが増えていますが、執拗につきまとう行為は以前から存在しています。
(今回のコラムでは、狩猟的に対象を決めて追いかけるようなケースは除きます。)
どのように危害が及ぶかによって被害者と加害者が明確に分かれるものですが、行為としては未遂であっても、ストーカー的な関わり方をする“エネルギーレベルの段階”は、それほど珍しくありません。
これは、ストーカーをする側にも、される側にも言えることです。
特に、ストーカーをする側にとっては、偏執という認識があまりなく、「必須であり、意義がある」と信じていることが多いのです。
また、自分の過去の経験や信念から関わり方を決めつけた結果、ストーカー的な考えを抱いたり、想念を送ったり、態度や言動に表すことがあります。
ちなみに「エネルギー」と一言でいっても、波長によって特徴や強度は変わります。
物理的な行為に及ぶレベルもあれば、微弱で些細なことで払拭できるレベルもあります。
しばしば、物理的にストーカーを受けていても気づかない人がいるように、エネルギーレベルのストーカーも作用しないことがあります。
逆に、ストーカーされていないにもかかわらず、自分の解釈や認識によって「ストーカーを受けている」と信じ込み、自分の想像的な恐怖によって巻き込まれてしまうケースもあります。
また、エネルギーレベル(意識や感覚)のストーキングが予兆として起こり、そこから行動や態度に強く出ることもあれば、そのまま減衰していくこともあります。
セラピーやカウンセリングの場では、ストーカーされる側からのご相談もありますが、その逆、つまり「ストーカーしてしまう側」のケースも少なくありません。
「ストーカー=凶暴な事件」というイメージが強いため、自らの想念や言動は“許容範囲内”だと考えてしまうのも自然なことです。
カンの良い方であれば、「この手のストーカーは、執着心の強い人や情が濃い人だろう」と考えるかもしれません。
執着とエネルギー的なストーカーの違いは、相手のエネルギーを自分の中に取り込んでいるかどうかです。
まるで自分の思い通りにできることが前提になっており、そうならないことに対して憤りや辛さを感じます。
その辛さは生理的にもしんどく、その痛みを止めるために、さらにストーカー的行為(想念レベルですが)が強まっていきます。
初期は、想念や情的なものだったとしても、自分の中に取り込んでいくうちに、「自分」と「相手」という存在の境界が曖昧になり、相手が外の存在であるときと、自分のエネルギーの中に取り込んだ相手に対する執着が混在していきます。
真の辛さは、自分のエネルギーの中に、頓着なく相手を取り込んでしまっているという、大変“不自然”な状態に由来するものです。
にもかかわらず、「相手によって苦しめられている」というストーリーに巧妙にすり替えられてしまうのです。
これは特定の人に向けられたものに限らず、運勢や予兆といった一部のスピリチュアルな解釈にも非常に親和性が高い現象です。
ちなみに、人生のなかでむやみに辛いとか、痛みがあるときは、「方向が違う」「何かが違う」というサインです。しかし、その辛さゆえに、そのことに気づく余裕がないことがほとんどです。
なかには、「自分の執着した思いを消したい、忘れてしまいたい……しかし、そうさせてくれない相手をなんとかしたい」というドラマを創ってしまうケースもあるでしょう。
考え方や過去の経験に由来を探って意識の転換を図るという、セラピー的な方法が合う場合もあれば、不自然なエネルギー状態そのものを整えるというミクロなアプローチが有効なこともあります。
どちらにも、それぞれ相応の働きかけが必要です。
そして、いずれのアプローチであっても、偏執的な執着を一旦否定せず、「そういう状態が続いている」とニュートラルに認識しておくことで、本来の自然な状態に整えやすくなります。
透視カウンセリングのなかで、「特定の誰かのエネルギーを読んでほしい」というご相談をいただく際には、なぜクライアントの方が知りたがっているのか、という背景を読み解きます。
ほとんど場合は、その要望の背後にヒントがあります。
恐れや不安から派生するエネルギー的なストーカーに加担するような場合、結局。透視領域が機能しないものです。
ご本人の想念の中のドラマを鑑賞するようなもので、どんな内容であっても一時的な安心にしかならないのですから。
今回は人によってはセンシティブなテーマとなりましたが、何かしらご参考になれば幸いです。