先日、Hさんから少しあらたまったご質問メールを頂戴いたしました。それはこの時期にタイムリーなトピックであり、どの時期でも普遍的な現象でもありますので、こちらでお返事を書いてみたいと思います。
ご無沙汰してます、Hです。
こんな状況ですが、素朴な質問が浮かんでしまいました。お忙しい中、必要なければスルーして下さいませ。
下記のような記事を読み、
私は、なるほどね!だったんですが、「集団祈祷によって集団感染ー」のあたりで、祈祷って歴史の中で、沢山行われてきたけど、無意味だったのかなぁー?という疑問。
一方で、昔、志麻先生の和室でのワークショップで、輪になって、真ん中に皆のエネルギーを集めて、そこに座ったときのあったかいものは実感としてあるので、祈祷は意味あるでしょうとも思うのです。
そしてまた一方で、悩み事にエネルギーを集中すると、悩みがどんどん膨らんでしまうとも言われてますよね?
皆んながコロナに注目して騒いでエネルギー注いじゃっているから、拡大?
しかし逆にコロナの事そんな大袈裟に捉えずいつもどおりに暮らしたら、、イタリア、アメリカの結果なんですよね。
自分含め、皆んながまた楽しく暮らせる日々をイメージしていけばいいのかしら、、、
テレワークやら会社に頼らない働き方とかにシフトする摂理もあるのでしょうから、人間の祈祷なぞでコントロールできるものではないのでしょうが、、、
あの輪になった時のエネルギーを体験させて下さった志麻先生なら、今、祈りについてどうお考えか、
何かヒントになるものがあれば、コラムなどでアドバイス頂けたら嬉しいです☆
どうぞよろしくお願い致します。
記事はサックリと読ませていただきました。私はウィルスに関する専門家や祈祷について研究している者でもありませんが、Hさんのご質問の真意を感じつつ、書かせていただきます!
しばしば「この世に起こること、この世のすべてに意味がある」と聞いたことがあると思います。
だから、「考える葦である」人間としては、「◯◯◯は無意味なのだろうか?」と定義付けるなら、自分の存在も無意味なのだろうか?に繋がります。
当時の祈祷は、多くの人を救ったようです。今の時代の人たちや、異なる慣習・概念の人たちがどう解釈するにせよ、大きな救いのひとつだったと感じます。
和室で行ったことがあるエネルギーワーク(随分と前のことでうろ覚えですが)は、祈祷に似た要素があるとすれば、気やエネルギーで繋がる感覚でしょう。しかし、祈祷とは目的が異なります。祈祷には、一般的に人の力ではどうにもならないことに対して祈る、願う神事(何の宗教であれ)が源にあります。
祈祷もエネルギーワーク(ヒーリングなど)も、熱量を生み出すエネルギー技術も、意味を為す媒体や手段です。だから、目的によって祈祷は意味を為したり、望んだ通りには運ばないこともあるでしょう。
確かに悩みや問題に集中すると、悩みや問題はリアリティを増します。それが、社会や人類史上に残るほどの事実はたくさんあります。事実は真実ではないので、時代や状況によって、さらに後世には違ったものになります。
たとえば、今佳境の新型コロナウィルスには、世界が関心を注いでいますが、これはもっと大きなシナリオ展開があるように感じます。注目するかしないかを個人のレベルでは選べず、もっと大きな力や意図が働き、今、この大きな問題に目を向けさせられており、一方では肝心な大きなストーリーから目を逸らされている、といった具合です。
今しばらくは、現実的に新型コロナウィルスにロックオン!(照準を合わせる)。しばらくすると、またみんなで他の照準を向くことになるでしょう。
いずれにせよ、賢明な受け止め方や生き方はありますので、またそうすべきことに気づいていれば、健康面であれ、経済面であれ、なにより魂の部分から元気を回復していけそうです。しかし、慌てず、焦らず、しばらくは(ワンちゃんの)待て状態のようですね。待たされているのは、この先のことを十分に整えるための、ある種の時間稼ぎなのかもしれません。
おっしゃるとおり、テレワークなど、働き方をはじめ、長年の当たり前は一掃されそうですね。そして、「人間の祈祷なんぞ」でコントロール(調整という意味で)できないようで、できることもあり、なのです。祈祷はピンキリです。ピンは神です!
ちなみに、「自分含め、皆んながまた楽しく暮らせる日々をイメージしていけばいいのかしら」については、これまでの楽しく暮らせる日々のイメージと、源は同じであっても、そのカタチは異なる可能性が高いので、柔軟なイメージ対応が宜しいようです。同じカタチに戻るために、問題が発生したわけでも、それを乗り越えて元に戻すことでもありません。身近な例えでいうなら、日本は今まで残っていた「昭和」感には戻らない。そういうことの世界レベルです!断言?してみますが、ご自身で考察なさってください。感じ方はそれぞれですから(^^)
基本的に、祈りは静かなパワーです。しかし、静かなパワーが壮大な力を発揮することがあります。私たちはそういう壮大な祈りのパワーに何度も救われてきたそうです。今の私たちも、そして代々遡った方々も。壮大なパワーをわざわざ伝えないあたり、謙虚であり、真の強者です。もっとも、祈りはいくら強くても、届くところには届くが、届かないところもある故、受け止め側の認識が強さを図るからでしょう。
祈りは奥が深く、楽しく(境地の愉しくもあり、面白いの楽しくでもあり)、そして悲しいものであるとか。自他に問わずむけた祈りは、結局のところ、祈る者を救います。そこで純粋な祈りなのか、自我や奢りがある祈りなのかは、祈りやヒーリングの真価を定めます。
ここで書かせていただくことは、Hさんのご質問に対してのリーディングが含まれての見解ですから、一般的に誰にもどんな状況にも当てはまるとは限りません。あしからずです(新型コロナウィルスのくだりは除いて・・・)。
そして、この「素朴な質問」がわいたHさんには、「特に今起こっていることも、先行きも、不安に思わなくていい。むしろ、これからの現実を見て強く生きるためにも、毎日生きていることを楽しんだらいい」といったようなことが出て参りましたので、お伝えさせていただきます。
そもそも、祈りは不安を安らかにするものですね。
当初のご質問からまとめますと、「志麻先生なら、今、祈りについてどうお考えか」
・・・んー、今、私はあらためて祈りについて考えておらず、なぜなら、「いつも祈りの常態にあるから」だそうです(笑)それがお勤めという意味での「仕事」のようです。
自分でも「へぇー、そうなんだ」と自問しますが、無意識にそうしており、いわゆる「祈りの波動」でいるほうが私は負のストレスがなく、快適なのでしょう。祈りは自分をも守る(爆)
最後の私のオチはさておき、祈りや昨今の事象について、何かのヒントになりましたら幸いです。