波動の観点から物事をとらえると、表面的な部分でなく、本質がわかるようになります。表面的に理解するとき、自我やマインドが働きます。自我やマインドは、ときに健全な思考を止め、素直に感じてわかる「直感」を遮ります。そして、「どうすれば良いのか?」「どうすべきか?」と悩ませる流れになります。
その人間関係や相手に対して課題があるとき、自我やマインドが忙しく働くなら、エネルギー波動はやや下がった状態になります。低い波動になると、本質がわからなくなり、かえって「どうすれば?」と正解を求める方向に向います。とかく、健全な内側の本音に対して葛藤がおこります。そして、今度は外に気を散らしてしまいます。「相手はどう思っているのか?」「この先はどうなるのか?」などと、あまり重要でないことを知りたくなります。
ワークショップ「人間関係の波動を上げる」では、本質をとらえよう!という気づきが目的です。誰と関わるのでも、はたまた自分自身を受け入れることでも、まったく同じです。自然に自分らしくなれないと、他者や関係に対して不自然なものを求めてしまうようです。実際に、自然(ネイチャー)と関わるような機会が減り、人工的な暮らしが増えるとそうなりがちですね。
一般的なめやすでが、人間関係において波動が下がると、こんな特徴があります。
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*ワークショップ資料より
関係のわるい人づきあいでなくても、いくつかは当てはまるかもしれませんね。逆に波動の相応に高い相手、関係を育みと、これらの現象との違いが明白になります。
ちなみに、これらはけっして、相手のせいだと指摘するものではありません。むしろ、これらの状態を調整できる権利は自分側にあります。しかし、そうできない自分を否定しないでください!エネルギー波動(本質)の観点には、加害者や被害者という概念はありません。ただ、こういう状態を示しているといった具合です。
上記のほかにも、少しトリッキーな気づきにくい低い波動の状態があります。が、それらは解説が必要なのでワークショップに譲ります。
上記よりさらに低い波動は、相手を恨む、強く憎む、というものです。そこはドラマ化しており、もはや今回のワークショップでは取り上げないのですが、世間には少なくないでしょう。相手を恨む、憎むという本質は、「自分が毒を飲みながら、相手が毒で死ねばいい」というものです。有名な諺の「人を呪わば穴二つ」ですね。
しかし、そういう経緯にも事情があったり、未消化、誤解、無知などの重なりにより恨みや憎しみに転じてしまったのでしょう。
笑事ではなく、人を呪ったり、相手を破滅させたがる人は、そこに膨大なパワーを注ぎます。そして、自分はたとえどうなってもこの相手は許せない、と真剣に考えているケースはよくあります。
波動は下がっても、自然な現象として何度か元の自然な状態に戻るチャンスはあります。それを幾たびもスルーしてしまうなら、どんどん重たくなり、暗くなります。
波動の下がった重たい関係にはまりはじめると、余計に放っておけなくなるのですが、そうときほど、いったん離れて距離をおいたり、時間をとるなどするのが賢明です。解決しようとするのもアダになることがありますよ。
「人間関係の波動を上げる」ワークの中で、映画館のスクリーンを使うものがあります。
ヒプノセラピーやNLP(ヒプノが含まれている)の技法でよく使うのですが、状況を客観的に観察し、困った苦しい状況に対して自由で賢明な方法を見出すことができます。恐れや悲しみなど、強烈な感情を解放したりトラウマから自由になるテクニックです。
Sさんの体験によると(アンケート回答より)
「映画シーン1では、どうにもならない、変わってくれない人(夫なのですがー)が出てきました。場面を白黒にすると、ポロポロと紙屑が崩れるように無くなってしまいました。映画シーン2では、夫から見た普段の情景が出てきました。とても鮮明な映像で、それは私が自分から逃げていることを指摘しているような気がしました(たぶんですが)。夫にも、自分にも、こうでなければダメ!という考えがすごく強いんだと、あらためて自覚しました。それが、足かせだったんだと。北風と太陽みたいです」
そうですね、ジャッジや批判も、自他に対して本質を妨げる捉え方です。
Sさん「最後の映画シーン3では、具体的な場面ではないけど、とてもキラキラして明るく、特に気にせず気楽に人づきあいしている感覚がありました。夫のことも気にしていないのか、出てきませんでした」
相手と本質で関わるなら、本当は自然でとても楽なはずです。
本質から関わる=魂のレベルでわかるからです。
最近、人付き合いが億劫だ、人からストレスを受けると感じることが多いなら、自然体で魂から生きることを思い出すと良いでしょう。魂を忘れると、要らぬ役割やしがらみの多い繋がりになります。
本質でとらえると、人間関係に限らず、ほかの何事でも、この世の中に不要なものも、ダメなものも存在ししないと合点がいくでしょう。全てそれなりに役に立っており、用途を満たしている、という具合です。もうちょっと強調するなら、「すべてに存在の価値がある」と言えるでしょう。