お節介焼きは、ポジティブに言えば、よく人のことを観察していてボランティア精神に溢れている、と言えそうです。
おおかたは、他人のことに不必要に立ち入り、世話を焼いて煩わしいと思われますね。
結構昔からある言葉に感じますが、今でもときどきお節介焼きに関係する態度や心情は、ご相談の垣間に見られます。
「お節介や世話を焼かれて困っている」とおっしゃるやられ側と、
「よかれと思って言ってあげたことが、相手にはお節介で迷惑だったら」とお節介加害者側になっていないか懸念する、両方の立場からです。
お節介役が板についている方々は、お節介を働いているとはほぼ気づいていらっしゃらず、むしろ
「もっと何かやってあげなくてはいけない」
「もし放っておいて、相手や周りが困ったことになっていはいけない」
と考えており、
もしも、相手から構われることを断られたなら、
「一体、なぜかしら?」
「せっかくやってあげたに、あの人はちょっと変わった人。さらに心配だけど・・・」
と、観点の異なるところで、過度な思いやりゆえに困ってしまう傾向にあります。
テクノロジーの進化で、かなりコミュニケーションの媒体や方法は変化していますが、お節介という態度はそれなりに引き継がれているようです。
ご自身や周りにお節介な人のテーマは思い当たるでしょうか。
人それぞれ、相手と自分が同じ感じ方をするとは限らないことは、大前提として心得ておくと、お節介調子の関係から感じる負担は軽くなるでしょう。
お節介を働いてしまう側も、焼かれやすい側も、お節介という態度そのものは、根絶する必要はないものかもしれません。
特に根っからお節介がデフォルトな気質の方は、それなりにお節介が功を奏することがあるからです。
実際に、そんなご当人は、これまでお節介を焼いてよかったと信じているエピソードを幾つか持っている可能性が高いです。
たとえば、ヒットの頻度は多くないにせよ、お節介ゆえに情報や人の動向を観察しており、目撃情報や、一般とは違う観点で見抜いている推測や可能性があります。
なお、お節介がデフォルトの方たちと関わるときのコツは、基本的にその気質や態度を認めることが肝要なようです。
やがて、こちらには不用意に介入する必要がないと感じ取り、お節介は焼かれなくなるでしょう。
一部の心理学者の見解では、お節介を焼きたがる人の心理の裏付けとして「自分の存在や態度を認めてもらいたい」という説があります。
相手に感謝してもらいたい、という言い方もありますが、そこまで自己肯定感を求めておらずとも、生理的に相手や状況を放っておけずに、誰かに介入する方々もいらっしゃいます。
関連して、お節介を焼いてくれている方の意思自体を尊重することで、相手を認めることになりますので、こちら側のテリトリーには介入されなくなるようです。
お節介を焼かやすい人、あるいは、特定の人からあれこれ意見をされたり、感情やプライバシーに関わるところに首を突っ込まれることがあるときも、辟易しますね。
何か特別なことが起こったために、そのようなお節介を焼く人が、あなたに向けてエネルギーを発動してくるかもしれません。
とかく、言葉や態度で表だったお節介が多いとは思いますが、スピリチュアルやエネルギーワークの業界でも同様にお節介エネルギーやサポートというものが起こります。
特に日頃からヒーリングやスピリチュアルワークを趣味や活動として頻繁に行なっていると、お仲間内での、ヒーリングお節介というトラブルが少なくありません。
片や「相手のためによかれと思ってエネルギーを送ってあげた」ものの、受け取った側は「なんだかイヤな気(エネルギー)が入ってきてしまって、困ります。自分で取れないし・・・」と気になります。
因みに、結構よくあるケースですので、他の物事と同じように、ヒーリングやエネルギーをお送りするときには「相手の許可(OK)をいただく」必要があります。
笑い話みたいですが、相手を思い「祈って」贈ったエネルギーが、受け手側は「呪い」が送られてきた、と感じるケースがあります。
エネルギーでも、あるいは言葉やギフトでもそうですが、Too Much(やりすぎ、がんばりすぎ)は、その負荷や重たさが、相手からすると心地よくないわけです。「重たい」のですね。
具体的には、自分の力でできる領域や持ち時間でできるところに、お節介が入ってくるのは、こちらの可能性や選択肢や持ち時間を信頼していない、という構造にも繋がっています。
お節介を焼かれていると感じて、自分側のことやプライベートに集中したいのに邪魔をされるように感じるとき、最初はお節介屋さんにばかり気を取られがちですね。
やずらわしさや、ときには相手の態度や言葉から、傲慢さや否定的なものに感じてしまい、むしろエネルギーを奪われる感じがするでしょう。
そのようなときは、お節介を焼く相手や状況に対応する優先順位を下げて、まず、ご自身のことを優先していくのがベターです。
思いのほか、自分自身のパワー、体力や気力が落ちているときに、お節介を受けやすいのです。このパワー、体力、気力は、肉体レベルの基本的な部分から補給していくので十分です。
睡眠、食事、余暇、あるいはゆとりがあれば、自分が取り組んでいること、優先してやりたいことなどに専心してみましょう。
こちらがシャンとすると、お節介で介入する人は必要とされていないことを無意識に感じ取ります。
自分自身のエネルギーが十分でないときに、お節介に対して口論したり対峙してしまうと、お節介の反撃をいただくか、関係性が致命的になってしまうかもしれません。
また、そこでさらに疲れますので賢明ではないと言えそうです。
エネルギーが十分になると、相手が構ってこないのか、自分が気にならないのか、どちらかに落ち着きます。
志麻ヒプノで行うようなカウンセリングやエネルギー系のセッションでご相談されるクライアントさんは、気(気遣い)に敏感になりがちのようですす。
拝察すると、「相手は気にしていない、なんとも思っていない」ときでも、自分のお節介で相手のことに立ち入りすぎてしまったと心配されることがあります。
家族間で、親子、夫婦、パートナーであっても、むしろ…だからこそ、どこまで自分が関わるのがよいのか、相手に任せて信頼したほうがいいのか、と考えがちです。
昨今は、お子さんの教育や遊び方について、どこまで親が躾として注意するか、子供たちの自主性に任せたほうがいいのか、思案される親御さんは少なくないです。
個人セッションでは、相手の方のエネルギーや状況を読ませていただき、まずは表面的な情報を拾います。
しかし、それでは、気になるたびに、誰かに聞いたり、情報を調べたりしなければなりません。そのプロセスも役には立つでしょうが、そもそもエネルギーレベルでは介入になる可能性があります。
相手はこちらの(たとえば透視で)動向を知らないと思っているでしょうが、結局は、伝わっています?!
物理的な情報のように伝わるわけではなく、無意識に、こちらの言動として、相手の無意識にも伝わる、という具合です。もっとも、そういう領域だからこそ、エネルギーや霊的と呼ばれる情報を読めるのですが。
ふだんのお節介な言動態度に比べれは、波動は高いものの、本質はあまり違わないかもしれません。
特に恋愛関係やパートナーについて、相手の思いや情報をエネルギー的に知りたがるときは、実際の会話や態度によるものより、暗くなってしまう可能性さえあります。
大ざっぱにいえば、自分側がお節介や関わり具合を懸念するときは、直感的に相手に向けて発したものは、それはそれでOKです。考え抜いて決行した関わりも、それはそれでOKです。
物理的であれ、エネルギー的なものであれば、それらがやりすぎであれば、自分側に反応が戻ってくるでしょう。
だいたいの場合は「疲れます」。
精神的か、エネルギー的か(気力、好奇心など)、体力的かもしれません。“気づき”で受け止めることにより、間違いや失敗という解釈は、ほぼ影響しなくなるでしょう。
お節介を働きすぎていないかと懸念する繊細系の方々は、ご自身が思っている以上に、人に構わなければ生きていけない、と考える傾向があるようです。
日頃から、まずご自身の精神力、体力などを満たしておき、携帯バッテリーでいったら80%以上に維持しておかれると、そもそも相手にお節介か、躾すぎか、パートナーの愛情を疑うか、といったことを回避できます。
もし、自分バッテリーの消耗が早いな、と感じる際には、スマホでのSNSやメッセージでお節介関係のやりとりが増えているのかも?しれません。
ちなみに、お節介の語源を調べてみると、胡麻などを擦る調理器の「ゴマすり鉢」の内側の溝をかきおとす道具を「狭匙(セッカヒ)」や「切匙(セッカヒ)」と呼び、そのすり鉢の溝をかきおとす行為と、人の内面やプライベートに立ち入ることを抽象的に捉えたそうです。
語源は、文化的背景が移ろぐにつれて、あまりピンとこなくなりますが。
ちなみに、その2。「健全な境界線」のアクティベーションを流すと、その背景にある信念体系に働きかけ、なぜお節介、介入が起こるのか紐解けてゆくかもしれませんね。