「無の意識」「無我」「無心の境地」など内観を表す表現があります。無を認識するのは有かもしれませんし、表面的には無に見てとれるも宇宙的な無限の有を表しているのかもしれません。
禅問答に入りそうなので、ここでは、「無の意識」のとある定義をご紹介しようと思います。
オーディオセラピーの瞑想レッスンシリーズ「今日を無の境地で暮らす」になぞらえ、今、ここに在るという平穏な集中力を必要としている方には合っているかもしれません。ピンと納得する方もいらっしゃれば、「ハテ?なんぞや」でも結構です。
「無の境地」は、厳密には人それぞれ異なる感覚です。比較的共通する感覚や認識を挙げます。
たとえば、「無」の意識状態でいると、無であるにもかかわらず、周りの物が物理的にハッキリ見えたり、物や人の存在感をしっかり感じるようになります。
体験や物事の密度が濃くなります。それは余計なフィルターがなく、リアルな感覚意識が今、「ココ」にあるからです。「ココ」とは、あなた自身です。
また、よくもわるくも記憶にとらわれず、本人にとってあまり意味を為さないことは忘れやすくなります。記憶としては残りにくく、体験に直接関わっているときほど鮮明に強く感じます。頑ななこだわりや執着心が薄らぎます。
もともとアクティブなタイプなら、心が軽くなり、身軽に行動しやすくなるのも特徴です。
ところで、無の意識は、何もない「無」という意味とは異なります。何もないところに、全てがあるという、包括的な無です。
仏教用語でもある色即是空に近しく、この世のすべてのものは、実体はなく、因縁をつけることによって成立しているという構造です。永遠の形を持つことも、永続するものもありません。
一方では、未知数の可能性があるわけで、無限の無でもあります。
すべてがあるわけですから、何かに執着し苦しむとか、不安に感じて動じる必要がありません。
無の境地は、無我の境地のように、我の思考がない感覚であると感じるかもしれないし、逆に思考や想念がよぎることも無の境地の一部かもしれません。集中し、ゾーンに入るのかもしれないし、それさえ感じないような存在感かもしれません。
人それぞれであり、無の境地にあるときのあなたが、それが無の常態であろうと知るでしょう。
悟りや修行を積んだような崇高な意識を連想するかもしれませんが、愉しさや喜びといった高揚感かもしれません。瞑想とともに暮らすなかで、それを発見していきましょう。きっと新しい感覚の暮らしになるでしょう。
その感覚で暮らすとき、あなたが随分長い間求めていた「何か」がわかっているはずです。
ただし、肉体をもちこの世界に生きている間、いつも無の境地で過ごすことがあなたらしい暮らし方とは限りません。意識の多様性を愉しんでよいものです。
*「今日を無の境地で暮らす」より抜粋
配信前の新作体験会では、誘導瞑想やヒーリング・セラピーに慣れている方が多いようです。実践瞑想体験は10:58と短時間ですが、この中でご自分なりの「無の境地」を感覚的に味わうことになります。ちなみに「無の境地」に入ると心地よく寝落ちてしまう(脳波はふだんの夜の睡眠とは異なることが多いのですが)方は少なくありません。オンラインで、各々のお家の寛ぎもスリープ作用があるのかもしれません。
誘導スクリプトのなかで「時間の扉」を越えるシーンがあります。扉を越える、ドアを開けるという誘導は意識を切り替える手法としてしばしば使っています。
「時を創ったのは天使、時間を創ったのは悪魔」というシュールな表現がありますが、便利な一面を発揮している「時間」に制限を受けている意識(心)を、扉を越えることで「時」に移行させています。
〈瞑想や誘導セラピーについて難しいところは?〉
体験会後のアンケートで、瞑想全般に関する状況を伺いました。
「概ね難しくない 」が最も多く、素晴らしいことです。
その他「雑念や考え事が出てくる 」「途中でまたは終始寝てしまう 」「体験と関係ない妄想や空想が多い 」が課題に挙がっています。
個別に「たまに難しいが体験に慣れてきている 」「自分で作ってるのかなあとも思うが、それも信頼している」「あまり気にしていないけれど、言葉を聞き飛ばしてしまうことがある」とのお声もあり。
一日1回、できれば朝に体験するほど、一日の意識感覚に違いを感じられるでしょう。一方、夜やおやすみ前に体験するなら、一日の出来事や忙しいマインドから解放され、深い寝心地になるでしょう。
3日間、1週間、3週間と瞑想レッスンを習慣にすることで、いつの間にか日々の感じ方、過ごし方、経験の質に違いを感じられていくものです。
「あなたの見ている世界は意識が創っている」・・・まさにそのとおりだと思います。