アクティベーションを流すことは、とてもシンプルで簡単です。
エネルギーが動くことで、体感に変化がおこる人、自身の行動が変わる人、周りや相手や関わる景色が変わる人、そして同じ状況に見えて気づきや理解が変わる人、さまざまです。
病気や諸症状に対するアクティベーションは多数あるのですが、一般的な「病気に対する治療」というベクトルではありません。
その症状や病気を創りだしている根本に対して働きかけます。
根本とは「病気意識」です。言外の含みがあり、誤解ないようご説明してみますね。
小さな例を挙げます。
〈寒い日に湯冷めしたから、風邪をひいたんだよ!〉
そのもっと奥にあることです。
いや、湯冷めに気づいただけでも、本当に自覚したなら、また繰り返すことはないでしょう。OKです!
しかし、そのパターンをいつも繰り返すなら?
もしかしたら、お風呂や風邪のこと以前に、「いつもちょっと我慢しててもいいや」という考えがあるのかもしれませんね。横着な人のなかに、意外にプチ我慢な気質もあります。
このようなご相談ケースはないので、推測事例です。私自身、風邪は引かないまでも、寒くても平気なところがあり、少し我慢強い傾向があります(^^;
病名のつく症状、あるいは原因がわからず明確な治療方法がないとされる病気、これらも、その病気に至っている根本があります。
根本を探ることは、もちろん医療、科学、自然科学(環境などの影響)の分野それぞれに寄って行われています。
それらをも含むであろう潜在意識、私たちの心や感情を含む精神からアプローチすると、病気を創る意識があります。
ここでは、病気や症状は悪いこと、逆に「病気が幸いした」などという前提はアウェイです。
病気は辛い、怖い、恐怖だ、最悪だ、この病気にはこういうエピソードがある、などの批評、価値観、信念があることで、根本から離れてしまうからです。
大小、程度を問わず、その病気や症状を創造するものが「病気意識」にあり、しかし「病気意識」がすべてはありません。
(少しまどろこしい表現ですが・・・順を追ったほうが、病気意識の構造は知性でわかりやすいので)
病気に対比するものとして、「健康意識」があります。
健康意識というより、病気に対比した健康意識なのですが、この微細な認識は、ほぼ無意識に「病気になりたくないから健康でいたい」と働いているようです。
この対極的な健康意識は、明らかに病気意識に通じています。
対極なものがあることで、乾電池のプラスとマイナスのように、エネルギーがつながり具現化する作用があります。
「太りたくないから、痩せたい・・・」を基軸にするダイエットがうまくゆかないか、リバウンドする根拠と思われます(^^;
他にも人類が「問題」とみなしているテーマには、同じような対極的なエネルギーによって、ずっと人類史上、その問題が継承されていることが多いのです。
つまり、健康意識があることで、病気意識も続きます。
行ったり、来たり、します。
私が子供の頃、うち家族の「外では言ってはいけない雰囲気の話」のなかに(今は時代の許容範囲かと….笑)、
「健康、健康っていっている人ほど、パタっと逝っちゃうね」があります。
当時、第一弾、健康ブームだったと思います。青汁さんよりもっと以前の、濃い緑のクロレラなどが祖父母世代に広まりはじめていたと記憶しています。
きっと祖父母の周りに、第一次健康ブームが起こっていたのでしょう。このようなエピソードもひとつのラベルになってはしまいますが(笑)
病気意識にも、段階があるようです。
心身の病気に既存のアプローチをすることで回復し、健やかになるときは、相応の治療、習慣、体や症状について知ること、治療のサポート、などで、快方に向かうでしょう。
病気意識から健康を意識する大きな一歩です。
しかし、この方法ではよくならない、さらに病気や症状のほうがパワーアップするときは、次の次元のフェーズです。
次元は同じ空間にあって、移行することが可能です(その次元に気づけば)。
続いて、病気意識から自由になることです。
ここはある程度長くご自身の症状や病気に関わってきた方は、徐々にクリアされた経験があるかもしれません。
それは自然なことで、病気や症状が表に現れる段階から癒しそのものはスタートしていたからです。
いわゆる、病気や症状を受け入れ、向き合う段階です。
「病気や症状とは闘うものだ」という信念体系に強く影響を受けていると、病気や症状の特性によっては闘いに苦しむ傾向になります。
病気と闘う系の信念体系と近しいものに、「年を取ると病気になる」「年をとったら介護が必要になるだろう」「ある年齢になったら症状が出る(更年期など)」など、老いの想念があります。
その闘いがあまりに理不尽だと心底感じるときは、難しい対人関係と同様に、どう付き合うか落ち着いて探る必要があるのかもしれません。
ただ、人間には、相当高性能なものが組み込まれており(一個人というより宇宙と通じる領域の知性があるとして)闘いに疲れていくにつれ、ふっと向き合えて、次の段階へゆけることが自然のようです。
少し話が逸れますが、
7,8年くらいまえに、「病気・症状と対話するセラピー Talk to Me」というオーディオセラピーの原稿を書いた頃は、少し勇気がいりました。マニアックかな、と。
しかし、症状や病気を創っている意識と向き合う手法としては、ヒプノやNLPを応用すれば自然に成立します。
そして、実際にご病気をされた方が「私の病気は何を考えているのか話がしたい!」とおっしゃったことから、無理のないアプローチだと感じられたものです。
もちろん人それぞれ、時期により、というのがこの領域の特徴ですが。
ただ、対話でも、ピンとこないし、既存の治療方法でもパッとしないときは、いよいよ、次の意識へ向かう段階かもしれないのです。
それは病気と健康という対比した、一般的にどこでいつ明確に認識するようになったのかわからないようなプログラムを終了する頃です。(例えるなら、windowsなどの旧バージョン終了か、アンインストールするイメージ)
考えとして、病気、健康という分類があるのは知っていてよいし、相手や状況によってはそう見立てるでしょう。
しかし、一旦、この分類は、そもそも創られたものであり、それらを長らく、無意図に取り込んでいたことに気づきます。
ただ、このとき、ご自身や、身近な人や大切な人が病気や症状の渦中にいるときは、無理をすることはなく、また腑に落ちないはずです。ここは先急ぐ意味がありません。
内観や瞑想などを長く習慣にしている方は、このコラムを読んでくださる方に多いようです。
「病気は自分が創っているかもよ」*
「病気になることで、何かから恩恵を受けている」
という見解は、見聞きしたことがありそうですね。
でも、これらも、病気という意識体系に取り込まれた状態にある、ということかもしれません。
ちょっとわかりにくく感じられたなら、
既にこれらの病気意識から自由な方なのかもしれないし、タイミングが違うのかもしれません。
病気意識から自由であり、病気か健康かを気にしないタイプの人のなかに、子供時代やはるか昔(過去世か?)、そのためにみんなと違う暮らしをしたり、ずっと入院していた、という方もいらっしゃるようです。
また、生涯を通じて(一般的に見なされる)障害や症状を体現することで、身近な人、周りの人々に、本当の自由を教える生き様をもつ方々もおられるようです。
一方、医療従事者やドクターで、患者の経過や治療の結果に、ひっそりと心を痛める方は少なくありません。お仕事の役割を超えた部分で限界や憤りを感ずるとおっしゃる方もいらっしゃいます。
そんなとき「病気意識」から解放されると、患者さんの経過と健全な境界線がもてたり、むしろ、患者さんが快方に向かうケースが増えたそうです。(☆意識世界に興味をもって勉強している医療関係者の体験談です)
人伝の話ですが、「医師の患者に対する見立てが、患者の回復に少なからず影響する」という研究があるそうです。たしかに病気のときは、元気なときよりも相手の微細なものを感じやすいですね。
なお、病気意識のテーマについて、あれこれと探っていると、心身の状態が凄ぶる変わるのは非常に興味深いです。
体は無意識に見聞し、思考の信号が神経系を錯綜し、反応するように感じます。自分の人生史上でもっとも背骨や骨盤などの骨格が矯正されたように感じているこの頃です(^^;
・・・というわけで、病気や症状の探求に、何か気づきのヒントになりましたら幸いです。プチ・アクティベーションが作用しているかもしれません(^^)
*「病気は自分が創っているかもよ」
ここでいう「自分」というのは、個々人の自己と、自己が繋がっている創造主によって、という意味。いわゆる具現化した、という意味合いです〜念のため