日本では平和への意識がとりわけ高まる8月。終戦記念日に関連する重たいトピックとなります。
以下、氣に敏感な方はご注意ください m(_ _)m
731部隊の話は、日本の戦時歴史において最も忌まわしい戦争犯罪の一つとして知られています。
この部隊は、第二次世界大戦中に旧日本陸軍が細菌戦の研究や人体実験を行っていた特殊部隊であり、その全貌は未だに解明されていない部分が多く、非常にセンシティブな問題です。
731部隊については、インターネット上に多くの情報が存在します。思想的な視座の違いから様々な見解があるものの、比較的客観的な資料も容易に調べることができます。
それにしても、このような歴史的事実は、志麻ヒプノの精神宇宙の話とは世界観はかけ離れているように思われるかもしれませんね。
実は、ここ数ヶ月、これと関連する事実をたびたび見聞きするため、簡単にスルーすることはできませんでした。かなり個人的な観点からのレポになりますが、綴ってみたいと思います。
事の始まりは、医療者と疾病に関する講義中のことでした。
ある日の演習では、どのように人類がウイルスや細菌を発見し、ワクチンや治療法を発展させたのかという経緯が取り上げられました。
かつては、ウィルスや細菌性の病気の原因は、悪い空気や神の力によるものと見なされた時代が長く続いていました。ちなみに、今から8000年位前から麻疹ウィルスは存在していたと推測されますが、19世紀後半になってようやく炭疽菌、結核菌、コレラ菌などが続々と発見されるようになりました(このあたりの変遷は、現在のウィルス疾患に繋がり、非常に興味深いものです)。
そして、その頃から日本医学においてもウィルスや細菌についての研究が広まり、旧日本軍では生物化学兵器の開発を進めていたという歴史があります。それらを実用化した黒歴史を踏まえ、1982年に物兵器禁止条約(BWC)を批准しています。
この内容に紐づいて、731部隊の話が出てきたのです。
授業中、何気なくインターネットで検索してみたところ、1989年7月に「731部隊」の管轄機関であった陸軍軍医学校防疫研究室の跡地であった、新宿戸山の国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)の建設現場から、多数の人骨が発見されたという情報が多数ヒットしました。
新宿戸山は、私が小学校4年生の頃まで住んでいたエリアです。記憶は鮮明に残っています。
さらに調べてみると・・・
2011年には同じ現場近くの若松住宅という公務員住宅の土地について、〈陸軍軍医学校の元看護師が「終戦後、付近で解剖した遺体の標本が埋められた」〉という証言があり、厚生労働省が本格的な調査に乗り出したという情報や動画も見つかりました。
ネット情報のため信憑性は不明ですが、多くの関連資料にこのエリアの地名が登場します。
この若松住宅とは、家族でロンドンから帰国した直後に住んでいた家です。
なんでも2011年の時点で、すべての入居者が退去したとのことですが、それから13年が経ち、今でも国(財務省)の所有物として廃墟状態になっています。
かつて住んでいた場所であるゆえ、なんとも言えない気分になりました。
近年では、国有の廃墟物件について野党からも問題視の声が挙がり、そちら方面からも若松住宅は知られています。
気がかりなまま、その後まったく別の講義で、今度は戦後の遺骨収集問題が取り上げられました。
ご存知のとおり、日本政府(厚生労働省)や国際協力団体、ボランティアによって、今でも世界各地に残された遺骨の収集が続けられています。
その講義の教授に731部隊の人骨発見の話を伺ってみると、「もちろん遺骨収集のテーマになります」とのことでした。
そこで、期末レポートの一部として、陸軍軍医学校や旧第一軍医病院のあった「戸山が原」のあたりをフィールドワークすることにしました。
フィールドワークといっても、関連資料の内容をたどる現地確認程度のレベルですが、こちらでも共有したいと思います。
前置きが長くなりましたが、気になる方は続けてご覧くださいませ。
*新宿戸山を巡るフィールドワーク
40年以上経った今、私が子供の頃住んでいた新宿戸山の関連エリアを再び訪れたときの景色です。
歴史的に取り上げられている跡地と、廃墟と化した若松住宅に向かいます!
東西線地下鉄早稲田駅から、早稲田大学や箱根山方面に向かって歩きます。
7月某日。早朝でも30℃を越えます。界隈は上り坂が多いため、保冷バックに保冷剤をたっぷり持参しました。
都立の戸山公園。自然の地形を活かた整備で、地域の憩いの場でしょうか。散歩コースや通勤の通り道になっているようです。公園をぐるりと囲むように、付近には戸山ハイツという団地群が建っています。
新宿ど真ん中と思えない樹木の鬱蒼ぶり。この上は戸山公園の「箱根山」に通じています。徳川家の下屋敷時代に回遊式庭園を造設した際、池を掘った土を積み上げて出来た山と書かれていました。
ちなみに山手線内で最も標高の高い44.6m。登っていきましょう!
中腹に「陸軍戸山学校跡」の碑が建てられています。
江戸時代には尾張藩が所有していた屋敷のあたりで、明治7年陸軍の兵学校が移され、陸軍戸山学校となり、このあたりは戸山が原と呼ばれました。
競馬場、射撃場など西洋文化を取り入れた施設が建てられていたそうです。
昭和4年陸軍軍医学校が麹町から移ってきて、やがて細菌戦の研究・開発をしていた731部隊の中枢機関、防疫研究室が置かれました。
2011年、戸山ヶが原から多数の人骨が発見され、生体人体実験をしていたことが明らかになりました*。
のべ100体以上、鑑定の結果、中国人などアジア系別民族のものだったということです。
陸軍の総合的な教育機関だった旧・戸山学校の敷地内「陸軍軍楽学校演奏場跡」円形の舞台のようになっています。
日本基督教団戸山教会。
この時期は緑で覆われていて建物が見えにくいですが、教会の佇まいがはっきり観えるはずです。手前の石造りの部分は「旧・将校集会所」サロンとして使われていたところ。
人けがないと寂しいかもしれませんが、ときどきランナーとすれ違います。適度な凸凹道はトレイルの練習になりそう。
戸山公園と箱根山には、複数の出入り口があり、どこから来たのか見失う可能性はあります。
しかし、地名の記憶とGoogleMapがあれば、むかしの土地勘が働きます。
戸山ハイツの中では高層な住宅。朝早いとはいえ、1階の店舗部分は数店しか入っていないようです。小学3年の頃、友達が住んでいたので・・・ここは確か10号棟と記憶しています。
つい数年前までは、戸山ハイツ周辺が高齢化の進んだ大規模団地として寂れた様子が報じられていました。しかし、実際訪れてみると大規模修繕が施され、外壁は綺麗になり、整備も進んでいるようです。
第二次大戦後、このあたりは国有地になっており、たとえば、旧陸軍砲工学校は、現在の統計局です。
私はこの近くの東戸山小学校に通っていましたが、統計局に出社&退社する大勢の職員さんを見た光景を思い出します。ロンドンでお世話をしてくれていたお姉さんが、帰国後しばらくこの統計局に勤務しており、身近に感じるお役所でした。
小学生低学年には遠く感じましたが、今は歩くのが早いせいか、すぐ目的地に近づきます。
下り坂の先に12階建ての若松住宅の南面が見えます。当時7階の端の部屋に住んでいましたので、バッチリ見えますね。
屋根の青いラインが目印で、廃墟化する前に補修したにしても、遠目からは40年前と変わらない佇まいです。
この道路の壁面の左側には、国立国際医療研究センター(旧:陸軍第一病院)が建っています。むかしは「国立第一病院」という名称でした。同じ住宅に住んでいた私の親友のお父様がここに勤務していましたが、今思えば通勤1分の好立地です。
坂を下って1分もすれば、若松住宅の北側入り口に到着。発育旺盛な夏の植物に覆われていますね。
手前にはワイヤーが張られ侵入禁止の看板と鎖でロックされています。
道路側はトタンで覆われているわけでもなく、通行人の往来がある一角です。地域の方々にとっては見慣れた光景なのかもしれません。
もっとも、誰も住んでいない廃墟の建物….訪れる時間帯や季節によっては不気味でしょう。しかし、熱暑の青天下では雰囲気の問題よりも、なぜこのように放置されたままであるかのほうが、気になりました。
なお、冒頭に引用した看護師の証言により、『人体標本の遺棄を手伝ったとされる国家公務員宿舎(若松住宅)の敷地の発掘』が行われています。
『新たな人骨は発見されず、(中略)多数の試験管、薬瓶、注射器、映像用のフィルムなどと共に義足や石膏による手や足の型が出土』し、その後『この場所からは江戸時代の埋蔵文化財が発見されたため、以後東京都によって調査されることになりました』というわけで、**
調査の経過も詳しくは知られていない模様です、
若松住宅と国立国際医療研究センター(旧:陸軍第一病院)の間の道路にある壁面。セメントで埋められていますね。
私が小学生の頃は、大人がこごんで通れるようなトンネルになっており、行き止まりなのか、どこかに繋がるのか、覗き見ても暗くて見えませんでした。手前は、金属の錆びた縦柵になっており、錠前か鎖がかかっていました。友達とのぞいたりしていましたね。
近所の人や大人たちは「戦争中の防空壕みたいだ」などと話していました。731部隊に関連する地域だとは知られていなかったようです。
今回調べてみたところ、戦中の陸軍第一病院と道路手前にあった軍医学校を往来をする通路として使われていたそうです。
住宅から100mくらいのところには「国立感染症研究所(戸山庁舎)」が建っています。以前は国立予防衛生研究所という名称でした。1989年7月、先に紹介した、建設現場で多数人骨が発見されてニュースになった場所です。
「戸山人骨」として知られており、現在は、こちらの研究所内の「人骨保存施設」にて収められています。
この施設を建立した意図は、「身元確認の科学的知見が整うまで遺骨をそのまま保管することになった」(厚労省の記者会見用報告)ということです。
この場所から10分ほど歩くと、731部隊の創設者で陸軍軍医であった石井四郎の当時の住まいがありました。若松河田駅から徒歩数分のところで立地もよく、現在はアパートになっており、静かな居住地です。
フィールドワークに出かけた日は、子供の頃に見た景色と当時の思い出に被せて、日本陸軍の特殊部隊の足取りをたどるという奇妙な感覚を体験しました。
たとえば、小学校の読書感想文では、遠藤周作の「海と毒薬」について書いたことを思い出しました。こちらは終戦時に九州の大学病院で起こった捕虜の生体解剖事件を扱った、わりと有名な小説です。
731部隊の正式名称は「関東軍防疫給水部」として旧満州・ハルビン郊外に設置されていましたが、母方の祖父母は開戦後に満州に渡り、戦後には命からがら日本に引き揚げてきた世代です。
だから、満州はよく耳にしていた地名でした。
というわけで・・・
点在する出来事や知識を振り返りつつ、思い出の場所を歩きながら考察する貴重な体験をさせていただきました。戦争中の闇の歴史は解明されたわけではありませんが、戦後の苦境の先に、今の私たちの暮らしがあることは常に心に留めておきたいと思います。拝
参考資料:*戸山に関するもの「城北会誌」**人骨問題を究明する会説明会資料内「もうひとつの『人骨』調査へ」