最近のコラムは、ひと昔前と比較するネタが多くなっています(笑)
ダイバーシティ(多様性)とインクルージョン(受容)が社会に広がり始めてから、ここ1、2年でグッと当たり前に近づいてきていると感じます。
皆様の周りの生活、価値観、身近な方々の意識はいかがでしょう?
とはいけ、何世代か続いた価値観を本質的に落とし込み、捏なれるには、まだ猶予はあるものの、確実にレールは定まったようです。
宇宙系の方々は、2000年あたりから、太陽系の銀河系における運行が逆行して、戦いの時代から包括的・協調的な時代になると唱えていたでしょうし、2012年のアセンションでさらに追い風になると提言していましたね。
当時は、意識系の方々が奇妙なことを言っていると捉えられたかもしれませんが、それはそれで由です。目に見える状況になるまでの必然のタイムラグです。
当時から生きている私たちは、昔の価値観や経験を経ており、世の中のシフトにすぐ順応できない部分が要所要所にあるようです。
しばしばクライアントさんとのセッションでも、文字どおり、昔はこうだった・・・というプログラムが、ご自身の心理や行動に残っており、バグを起こしておられる現象があります。
部分的に時代に則っている反面、どこか不便な生き方になっています。生き方とは、考え方、パターンやルーティン、人との関わり、重要なものごとへの判断など、でしょうか。
部分的にアップデートされていけば、良いでしょうから、バグ現象に気づかれたら、相応な対処がおすすめです。
10年前あたりから、会社や上の方の方針で、「会社のダイバーシティのトレーニングがあって」と、仕事以外の時間に研修を受ける方もおられたでしょう。
一部の外資系企業、トップの方針や対外的な取引上などの理由で、にわかに広がった頃です。
元々、精神世界を宇宙まで拡大(笑)している系の方々は、他星人にまで多様性・受容性があります。むしろ、それを不思議がったり否定している人たちと精神的境界線があったやもしれません。
理解できない人たちのことを、分かり得ないが受け入れるとき、「あの人は宇宙人だね〜」とギャップを受け入れたり、特定の病名をつけることで受け入れる用意が整う物です。
後者は、もうしばらく社会全般、特定の価値観が強いところにはありますが。
ひと昔前(戦後以降)は、ダイバーシティや違いを受け入れるインクルージョンがあっては、経済成長の土台カタチを為せなかったでしょう。偏りを作りながらも力をつけるために認めることが難しかった時代のようです。
とかく、他者についての多様・受容の切り口が主流になりがちですが、まずは、一個人としてのあなたが、自分自身を眺めたとき、自分の多様性に気がついたり、それらをまず受容するスタンスにあるか?が大元にあります。
自分の好みの許容範囲の違いや多様性は受け入れるけれど、そうではないものが必ずやあるはずです。
それは自分自身に対しても、他者に対しても。
「自分のこんなところはいけない。どうしたらいい?」
「自分や身近な家族や子供がこんなふうになってしまったらどうしよう」
「これが出来ないのは困ったことだ」
という具合に、否定したり批判的な構えから入ってしまうことはないでしょうか。
そのようなものがあるとき、つい、それらは、少し形や態度や相手を変えて、周りに矛先を向けてしまいます。
もっとも、そのように、自分の中のフラストレーションを周囲に向けたとしても、ある程度の範囲は大きな調和によって守られ、非常な害には及びませんが。しかし、やはりチリも積もれば、ですね。
いかんせん、人間だもの・・・ときには、多様的に認められない何かがあるもの。
そんなときは・・・面白いほどに、自発的に、自由に、動けない(行動)ときです。
そもそも、ダイバーシティの風潮は、組織や会社、社会が管理し指示をし、それにただ従うことを終焉する兆しでもありました。
トップダウンの指示や、組織内でのコンセンサンスから、自分の立場や役割から自発的に考え仕事をするように・・・が求められ始めた頃です。
当時は、急に自発性を促されて困った経験をした方もおられたでしょう。
資本主義の中で、先進的な社会である国の割に、しばしば指摘されるのが、意識がちょい遅れ気味な日本・・・
でも、スタートすると一気に変わるというのが特徴のようです。
目下、自由に、自発的に、ダイバーシティや、違いを普通にインクルージョンするのが進行しています。
役割やラベル分類(年齢、性別、経歴など・・・)に適宜とらわれず、活動しやすくなっていくようです。
並行宇宙の旅では、人生の今のポイントで不本意な制限になっているタイムライン上のエピソードを見つけていきます。
「子供の頃や若い頃にはなかった多様性という考え方」
「自発的に何かをやることは我がままだ」
という当時の価値観や大人たちの態度が、セラピーの中で出てくることがあります。
Aさん「幼稚園か、子どもの頃かに、女の子だけがまとめられて、男女分けられている場面が出てきます。当時、なんで別々なのかなぁ、と不思議でした」
この場面に至る前に、Aさんの母親や年長の女性とのエピソードがタイムラインから出てきました。
確かに、男子・女子の区分や、それぞれの役割を強調することは、昭和以降の教育や躾では主流です。
その後、Aさんのタイムラインを、時代相応にもアップデートすると、先の状況は・・・
Aさん「さっきは、当時の大人たちによって子どもたちがチェスの駒のように並んでいたんですが、今は、各々の子どもたちが自発的に動いています」
志麻「女の子たちや、他の男の子たちとの関わりは?」
Aさん「特に女の子だからとか気にしていない感じです。この子、あの子とお互いが好きに関わっているようで」
大きな区分、役割、ラベリングから解放され多様的になると、自然に、文字通り、自発的に動くようになります。
とかく、若い頃や過去に、人間関係や周りに生き方の難しさを感じていた方は、少なからず精神的なものを大切にするようです。
今、絶賛、生きにくい!という方も、悩みや考え詰める中で、心に向き合っておられるかもしれません。
その生きにくさのディテールは、人それぞれと思います。特定の人、関係、仕事、お金、健康問題、込み入った事情、将来への不安、などなど・・・・・
中身はいずれであれ、そのように悩ませたり、苦しめている根本にあるものがわかれば、少しずつ風穴が開くでしょう。
それは、ご自分の中や、周りからそう思われている「こうでなければいけない」といった何かかもしれません。
ある意味、「いろいろあっていい」「まぁ、気に入らないけれどそれがあってもよい」程度の受容れ、を起動すると、悩みや苦しみが解れていく方向に向かうでしょう。
「経験そのものに意味はない」という話と同様に、悩みや問題視していることは「現象」です。その「現象」は悩みやトラブルな側面がある一方、そうでもない部分が大方です。
また、その問題や悩みに取り込まれてしまうと、そのまま何もできない、何もできないと思い込んでしまい、さらに苦しい状況が続きます。
実際、本当に大変な事態な時ほど、私たちは、率先して行動したり助けを求めることができます。
何より、困ったり、悩むこと、問題があること自体は、悪事ではありません。
普段の話では悪い事のように扱う癖がついているかもしれません。
停滞したくない、いつもうまくやりたい、といった偏った人生観が強い自己啓発系の影響かもしれません。ご自分自身のこと、身近な人、全くの他人のことでも、いろいろあっていいし、いろいろあります。
人生いろいろ〜♪歌謡曲を思い出しますね(^^)多様性の歌だったのでしょうかね(爆)
実際、社会や世の中で大きな問題が発生したとき、それによって恩恵や喜びを受けている側の人たちもいます。それは利害などのレベルではなく、必然の構造と思われます。
人の意識が解釈するところ、地球上のことは未知だらけです。