ドグマとは、宗教や哲学、政治などの思想体系において「守るべき教義や定説」を指します。
たとえば、中世のカトリック教会で公認された教理を「ドグマ」と呼んだり、古代ギリシャの哲学者のうち自然について主張する者を「ドグマティスト」と呼んだりしたことがその一例です。
また、「ドグマに陥るな」という言い方は、独断的な思考に陥らないようにという注意を促す意味でも使われます。
近代以前、産業や科学が主流になる前の多くの社会では、宗教的な思想が人々や国家を大きく牽引していました。
一般の民衆だけでなく、王や貴族も宗教や思想に従っていたと歴史に伝えられています。
もちろん現代でも、宗教・思想・政治のドグマが非常に強い力をもつ国や民族は存在します。
しかし、一方で社会規範や経済、テクノロジーの発展が人々の生活や価値観に直接影響を与えるようになり、信仰や思想、スピリチュアル(精神性)は冠婚葬祭、祭祀、「人生のサポート」のように活用される場合が増えているようにも感じます。
とはいえ、宗教やスピリチュアルと社会の営みとが完全に切り離されているわけではなく、相互に影響し合っているのが現実でしょう。
とくに社会と密接に関わりながら生きている意識と、精神的な活動とのあいだには、次元のズレのようなものを感じることがあります。
たとえば仕事中や公的な場でスピリチュアルな話をする人は多くはないでしょうし、仮にスピリチュアルが好きだとしても、それをすべての場面で実践しようとすると、周囲から奇異の目で見られるかもしれません。
何より当事者も違和感や不自然なことに気付かされてゆくものです。
これらは、ドグマがある状態での「意識の使い分け」とも言えます。
しかし、やがてドグマから解放されると、この「使い分ける」感覚そのものが必要なくなるのかもしれません。
たとえば現代の日本では、冠婚葬祭や各種イベントにおいて、宗教や思想、ある程度の政治的意見に関しても寛容だと言われます。
数世代から数十年を振り返れば、大きな社会変容のうねりがあった一方、過去のことは意外と忘れられていることも多いものです。
昭和世代の方々なら、幾つか思い当たる経験があるかもしれません。
また、多くの日本人が表面的にはリベラルな姿勢を持っているように見えても、個人や集団の中には特定のドグマやドグマ的思考が根強く残っている可能性があります。
それを「プログラム」や「潜在意識」、遺伝子的要因である「セントラルドグマ」*など、さまざまな比喩で表現できますが、それぞれご自分にしっくりくる方法で観察してみるとよいでしょう。
余談ですが、大学院の講義のなかで、「日本では特定の宗教を問わないという観点からも、スピリチュアルブームが起こった」という学説がありました。
また、医療や介護の場で言われるスピリチュアルケアとは、終末期医療における心のケアを指します。
いわゆる“スピ系”の考え方や取り組みとは異なり、肉体としての死を前提に患者や家族をケアしていくものです。死と生を切り分ける傾向が強いようですが、医療スタッフや専門の宗教家(チャプレンなど)が活動しています。
こうした例を見てもわかるように、同じ「スピリチュアル」という言葉を使っていても、ドグマをいかに反映するアプローチであるのかはさまざまだと感じます。
ところで、「自分はそれほど強いドグマを持っていない」と思っていても、家族や身近な人々、所属する組織やグループ、地域などの環境によって、気づかないうちに“ドグマの温泉”に浸かっていることもありえます。
子どもの頃や若い頃に集中して触れた思想や教義が、意識の奥深くに残っているケースもあるでしょう。
その内容や価値を問うわけではありませんが、過去の影響が無自覚なドグマとして働いている可能性は否定できません。
「クォンタムレベルの覚醒」では、過去の時間軸に強い影響を与えたエピソードを「書き換える」という一つのアプローチがあります。
Mさんの例では、潜在意識から「拝金主義」というドグマが浮上しました。かつて留学した国や地域全体で感じた、お金に対する価値観の違いが根強い印象として残っていたようです。
それが当時のMさんや周囲から見た「拝金主義」だったのかもしれませんし、その背景には政治・慣習・経済事情など、その国特有のものがあったのかもしれません。
いずれにしても、セッションでは拝金主義そのものというより、「ドグマに囚われている状態」からMさんを解放することを意図しました。
「イヤーリーディング」のセッション中、Sさんにアクティベーションのエネルギーを送らせていただい際、宗教的なドグマが浮き彫りになったことがあります。
ビジョンとしては、真紅に染まった痛々しいキリストの十字架像でした。
Sさんご本人には「特に宗教的な信仰はない」ということでしたが、このようなビジョンが示唆するのは、過去に何らかの形で宗教的ドグマの影響を受けてきた可能性です。
たとえば、カルヴァニストのプロテスタントとは異なり、カトリックには「貧しき者は幸い」という考えがあります。
こうした“痛ましさを愛や神聖さとともに経験する”イメージは、Sさんの潜在意識にある観念を象徴しているのかもしれません。
もっとも、聖書に書かれた内容自体も、時代ごとの解釈や意図によって変化している可能性があり、一概には言えません。
ただ、集合意識やエネルギー的な存在(いわゆるエンティティ)による影響が、このようなビジョンとして現れることは十分考えられるのです。
こうしたイメージをSさんにお伝えしたところ、Sさんは中高ともにカトリック系の学校に通い、キリスト教の科目の成績が常に5だったそうです!
愛や癒しの真理に通じる教義は心の糧や、その後の人生に活かされていることは間違いないでしょう。
一方、「ドグマに従うのが良いこと」という感覚を育んだ可能性もあります。
ドグマに従うことで安心を得る反面、それに反することへの恐れや不安が強まるとしたら、それは気づくべきサインでしょう。救いとなるはずの教義によって、自分を不自由にしてしまうからです。
ドグマは宗教・思想・政治などの領域だけでなく、現代では科学・医療・情報といった分野でもドグマ的な働きをするものがあるでしょう。
ドグマそのものは教義や定説にすぎませんが、それを扱う人間側の隠れた意図や操りが絡むとき、そこから解放されるための意識づくりが重要になるものです。
ちなみに、ドグマを利用して恐れや不安を煽ったり、人々や心のうちを分断させるようなものは、人為的な“操作”の表れと考えられます。
*遺伝情報で知られる『セントラルドグマ』:DNAからRNAを経てタンパク質へと流れる分子生物学の概念。