今や、SNSで「盛る」といえば、画像編集ソフトやSNS投稿の内容を実際よりも膨らます、という意味合いになりました。
もともとは、話を「盛る」といえば、実際より脚色したり、尾ヒレをつけたり、誇張し大袈裟な内容にすること。「事実と違うんじゃないの?!」というホラめいたことが含まれたりもしますね。
ツールや技術は変われど、昔から人間関係や周りの社会とのかかわりにおいて、自分をどう見せたいか、どう思われ評価されたいか、というときに「盛る」タイプの人たちがいるものです。
SNSは「盛る」習慣や「盛りキャラ」がデフォルトなのかもしれませんね。
なんら問題を感じない「盛る」側の方が、そのことでセラピーやカウンセリングにお越しになることは、これまでの経験上ありません。
一方、「盛る」人の身近な人たち、パートナー、知人や友人が、ご相談事のついでに気になってご質問されるクライアントさん方はいらっしゃいます。
聞いた話や見た投稿内容は「本当のことなのか?盛った話なのか?」と辻褄があわないものを感じ、不信感につながります。
相手との付き合いに混乱したり、盛られた内容が魅力的であれば羨ましく感じたりもするようです。
本当か、嘘なのか、盛って脚色したのか?
是が非の問題というより、やはり何かしら不自然なエネルギーを感じるため、「盛る」人に対して不可解な、時にはイライラしたものとして受け取ります。
(話が横道に入りますが)まれに、「盛る」ことで、自己啓発をしている方もいらっしゃいます。
このタイプは、虚構に近い「盛り方」をしますが、セルフイメージを「盛る」方向に寄せていき、やがて自己実現してしまうのです。
あたかも「今」自分がそうであるように自分を信じ込ませ、タイムラグがありながら、「盛った話」のとおりになっていきます。
ご自身もや、周りも楽しめてしまう見えすいた「盛り」は、それなりに潤滑油として状況を動かすことでしょう。
横道はさておき、以下では、不自然で無理があり、周りを不愉快にしてしまったり、混乱やトラブルや不信に通じる「盛り」についてご紹介したいと思います。
意外にも「依存症」に共通する土壌があるようです。
(精神疾患のレベルの依存症ではなく、日常の許容範囲にあるレベルの「依存症」です)
SNS発信をマに受ける人が圧倒的に多かった、少し前のケースです。
某SNSに、自分の家の前の庭や、買い替えたばかりの車の画像と一緒に写真を撮ってアップしているのではないか?と、パートナーの行動に違和感を感じ始めたBさん。
Bさん「最近仲良くなって、よく家にも遊びに来たり、子供とも遊んでくれてイイ感じなんですよ。
でも、彼の投稿を見ると、うちの車や、庭の景色と一緒に撮ったもので・・・その写真を見た記事に〈いいね〉がいっぱいついていて。
〈すごいですね、◯◯さん、新しい車買ったんですね!〉とかコメントがついているんです。彼は、そういうコメントにグッドボタンしかつけていないので、私の車については触れてないんです」
信じたいけれど、違和感を感じ、お相手の方の真意を知りたいとのこと。
プライベートな関係であるからこそ、微妙なところが引っ掛かりますね。
Bさんも、パートナーさんに直接聞いてみたそうですが、はぐらかせれてしまったそうです。そして、他にもBさんの物を投稿のシーンや内容に含めることが続き、不信と信頼に揺らいでいました。
このコラムの後半にかけて書いていきますが、
「盛る」という行為が癖になっている人たちは、どこかのタイミングで、不足した愛情・愛を求めている可能性があります。目の前の相手に対してではありません。
「盛る」に限らず、さまざまな依存症は、愛の代替として作動しているものです。
SNS投稿に限りませんが、リアルな会話でも、「盛られた話」、おおげさな話、尾ひれがついて脚色された内容を見聞きすると疲れてしまうのは、エネルギー的には愛や関心のエネルギーを取られるから・・・と言えます。
(注)エネルギーレベルでは、加害者・被害者の因果関係はありませんので、エネルギーを取られたと感じる側がエネルギーを渡してしまった、という構図なのですが。
クライアントさんのなかには、
「嘘ではないんですが、場を盛り上げたいというか、ウケたい精神で、盛っちゃうところがあるんですよね〜」と言う方がいました。
ご自身で分析されており、
「人から良く思われたい・・・って、自虐的に認めてますけど(笑)寂しいんだよね、ってわかってます。でも、そこで暗く思わず、楽しむことにしてます!」
依存的な課題が潜んでいるとお気づきでありながら、今はそこでバランスを取っておられる様です。気づきがあると、やがて盛る必要のないところに着くでしょう。
依存や中毒は、軽度のものから深刻で根深いものがあります。が、原型・本質は同じようなものです。
軽度な依存症では、特定の状況によるストレスや抑圧的なものが原因によるでしょう。軽度のまま、半生続くこともありますが。
おなじみの依存症といえば、特定の食べ物、依存を促進するようなアルコールや趣向品・・・
買い物、本能的にコントロールが効かないレベルのセックス、買物、(一般的な観点からは理解し難い)恐れ、自己犠牲、そして、今回取り上げる「大げさ」や「盛る」ことなどです。
いずれの依存も、ほかならぬご自身にとって苦しみとなっている感情や状態が在ります。
「自分でもやめたい」と思っている段階の方々よりも、
「自分でやめるつもりはない」「やめたほうが良いだろうが、そのつもりはない」というタイプは依存症の土壌に人生観をおいています。
なぜ止めようと思わないかというと、おおむね、依存的なものによって紛れている本当のしんどさ、苦しさ、感情的な何かがあるからです。
依存症の課題は、ある意味、自分自身にとって、『本当の成長』をする伸び代があるところです。
精妙に依存症の治療や回復をするためには、その根底にあるものを発見したり、発見せずとも中和する必要があるでしょう。
症状だけを止めようとしても無理があるか、ほかの依存症に転嫁します。
最近のコラムや個人セッションなどで、ときどき話題にさせていただいている神聖幾何学(セイクリッド・ジオメトリ)がベースである、セイクリッド・アクティベーション(神聖なアクティベーション)のなかには、〈依存症の方向転換〉というアクティベーションがあります。
このアクティベーションは、さまざまなカタチの依存症・依存傾向の本質にある、愛情不足に働きかけます。
愛情不足、愛に匹敵するエネルギーや気(関心を向けること)の枯渇に、気づかせるきっかけを促します。
アクティベーションは、潜在意識(宇宙レベルの超越意識と申しましょうか)に働きかけるため、明晰な気づきや変化がわかりにくいです。
しかし、自覚してわかっても、わからなくても、どちらでもよいのがアクティベーション系の強み、楽なところですね。
(私は経験上、理解の範疇で落とし込めてしまうことは多いですが、たまに、Ah, Haaa!! と後から驚きの構造を発見すると興奮しますー笑)
もしも、何らかの依存的なものがある、かつてあった、という方は、愛情のテーマとのリンクに合点がいくかもしれません。
愛情不足や、愛に対する誤解などによるストレスは、ほぼ周りの人たちから見て気づかれないものです。
むしろ、傾向としては、愛情関係や人との交流が上手にいっているように見えます。
愛・愛情は、実際のところ時間の存在と共存しませんが、私たちの時間の常識からみて、過去に愛・愛情の課題が残っていると、薬物や人工的なものによって満たしたり、ごまかそうとする傾向があるようです。
現在進行形で、おもに人間関係によって自分のエネルギーや愛情を注ぎすぎて枯渇し、自分への愛が不足すると、セックスなどによって擬似的な活力を得ようとする精力系の依存もあります。
いずれの依存症的な行動であれ、ご本人のキャパを超え、周りとの調和が振り切ってしまうと、その依存症がハッキリと露呈するカタチになります。
それによって、本当の意味で我が身を守る段階、周りによって依存症と手を切る段階へとシフトするようです。
とかく依存症状が表沙汰になると格好わるい、だらしがない人だ、などと思われがちですが、自他共に周知されることから、その依存症の改善・回復・癒しが始まります。
自身にとっては、依存に隠れていた頃の辛さ、苦しさの時期は終わります。
依存症というと病んだイメージかもしれませんが、地味な自分のキャパ内の依存程度であれば、何かのきっかけや影響により内面が成長し、手を切ることになることがよくあります。
P.S. 「盛る」話で、盛り蕎麦を連想し、食べたくなりました。とオチを盛ってみました(^^;