怒りや憤りの課題を自覚している方は少なくありません。
怒る感情はよくないものだ、周囲だけでなく自分自身にも反作用が大きい、怒ると疲れる、こうした認識は多くの人に共通しています。
怒りは爆発的ですが、憤りは内に鬱積するわりに、外にも不快なエネルギーを放ちがちです。
もちろん、文化や時代によって感情の捉え方は変わります。
現代では、怒りが周囲との調和や自分自身の健康に大きく影響すると知られているからこそ、抑えるべきものとされがちなのでしょう。
ただ、怒りの衝動が短期的な達成や障壁の突破に役立つケースもあります。
しかしこれは、条件やタイミングが整ったときに限り、結果的に「原動力」として活用できたにすぎません。
さて、あなた自身はいかがでしょうか。
怒りや憤りを抱いた印象的な経験はありますか?
怒りや憤りにはいくつかの特徴があります。
強い悲しみや、理解されない孤独感が変容して怒りに変わることもあれば、常に怒っているように見える人が、その態度を通して周囲をコントロールしようとする場合もあります。
そうした人は、自覚的にこの「怒りの手法」を使っていることが多く、目的が済めば意外とすぐに鎮火するものです。
心、身体、魂をあえて分けて捉えるなら、心が過剰に自制すると、身体に怒りが溜まってしまうことがあります。
医療や治療の場面では、怒りが身体に症状として現れたとき、もはや「感情」の問題ではなくなります。
逆に、身体に感じる疲労や症状が、心や魂(精神)に反応として現れることもあります。
たとえば、魂の記憶を探ると、厳しい過去世の経験が引き出されることもあるでしょう。
原因や結果、因果関係をどう解釈しても、それが決定的な答えになるわけではありません。
ただ、多角的に、そして多次元的に関わることで、固定化した感情や心身の状態が動き出すきっかけにはなります。
ここで、実際をアレンジしたケーススタディを一つ挙げてみます。
人間関係において強い愛情と裏腹の怒りに悩むKさん。
すでに自己分析を重ねることで、相手や自分への執着がだいぶ和らいだタイミングでした。そこで、次元を移行させながら透視を行いました。
あえて低い次元(重たい性質の波動)で視ると、中世ヨーロッパで火炙りに処される姿が浮かびました。
しかし不思議なことに、Kさん自身は燃えず、炎に包まれたまま周囲の怒りと憤りを受け入れているようでした。
ここには「それは自分のせいではない」という意味があり、自責ではなく、時代の流れに抗えない理不尽さが映し出されていました。
これは、Kさんの現状における怒りの対象は、本質的に違うことを示していたのかもしれません。
ちなみに「正当」あるいは「妥当」な怒りは、思いを達成する力を持つ傾向があります。
ただ、ここでいう「正当さ」や「妥当さ」は、必ずしも常識や倫理、思想と一致するわけではなく、エネルギーの足し算・引き算が合う程度の感覚的な話です。
Kさんの怒りを、より楽に感じられる次元まで引き上げると、皮肉やユーモアを含む情報が出てきました。すると、感覚的にCO2のような、焦げ臭い匂いが漂ってきたのです。
これは、怒りや憤りを抱え続けることが「燃費がわるく」、エコでもクリーンでもないという示唆でした。
たとえば、子どもを注意するために感情的に怒って疲れたり、ニュースや社会問題に怒りを感じて消耗したり、恋愛や友情のすれ違いで心の中に怒りを溜め込んで消耗する・・・こうした経験は、多くの人にとって身近なものだと思います。
怒りは、感情の中でも特にエネルギーを消費する感情です。
さらに、怒りに嫉妬が混ざると「恨み」へ、そして「呪い」にまで発展することがあります。
これが長期化すると、物質的な領域に強い影響を及ぼし、非常に不健康な状態を引き起こします。
「人を呪わば穴二つ」という言葉が示すとおりです。
扱いが難しいテーマですが、怒りを俯瞰し、客観視することは、怒る人を否定するためではなく、節度ある理解につながります。
怒らされている背景に気づくこともあるでしょう。
というわけで、このコラムが、感情を感じ、理解するためのヒントになれば幸いです。