特に肉体における人や動物の存在、物質と認識するモノ、愛用品には、命の象徴となる姿カタチの有無や機能性によって「寿命」を計るように思います。
果たして「魂」には、寿命という概念があるのかはわかりませんが。
人の命ほど深刻で神妙さはないものの、日々一緒に過ごすモノや、趣味や仕事などで魂が宿っているかのように使い込むモノにも、擬人化して「寿命」や老いを感じる方が多いと思います。
そのような命を感じる存在、モノはありますか?
車や機器を中古や下取りに出すとき「ありがとう!」と見送るとか、廃車や処分をするとき「昇天しました(涙)」などと例える人たちは少なくありませんね。
「寿命」や長寿には、寿という文字が入っているとおり、肉体の終わりというより、その人・存在の人生(ライフスパン)が十分に満たされたものであったか、を表しているようです。
絶対的な年齢や時間が寿命を決めているのではなく。
一般的に、若い年齢での他界は、めでたくはないような諸事情による、たとえば、病気、不慮の事故、事件、不可解なエンディングが直接的なものです。確かに「寿命」であったとは考えにくいです。
モノの保証期間や、一般的な物持具合からしても同様です。
「寿命」は、年齢や時間という物差しは目安のひとつ。主観的な計り方や認識(感情・感じ方)が決めています。
そうすると、「寿命」とは、絶対的な長いも短いもない人生観なのかもしれません。
時代や文化が異なれば、短命であっても讃えられる寿命さえあるものです。
そして、寿命は人の意思や願望を一線超えたところにおいて、定めているようにも感じられます。
現時点の人類の知性では、自分の顕在意識で勝手に決めることが可能になっても少々不気味ですね。
イヤーリーディングの中で、その年の干支にちなんだ「健康・長寿」についての項目があります。
セッションを受けるクライアント自身のリーディングですが、関連したものも浮上します。
Tさん「もう少し気を配ってあげたら、もう少し長く生きられたかもしれないと、急にぐわっと感情が出てくる日があります。やることはやったのだから、と思える日もありますが、ときどき、場面がフラッシュバックして辛くなるんですよ」
そのような思いの波が起こるのは、Tさんご自身がいっぱいいっぱいで疲れているときが多いようでした。特に近しいお身内においてはよくあり、ある程度の時間は要します。
多次元のビジョンで拝見してみると、読み取れるものも多様性があります。
どれも正解や間違いはなく、またいくつかのものがあって然り、という具合に。
この日のTさんにも、いくつか明るく賢明なものがありました。
その中では、ひとつの気づきになりそうなものがありました。
「寿命(命)そのものには、長いも短いもない」
言葉だけでは、意味不明な理解になりそうですが。
Tさん「結局、自分がそう思いたいだけなのかも。変な言い方ですが、もう少し何かしてあげられたらよかった、と思いたかったのかもしれないです。看護や最期が近くなってからじゃなくて、元気だった頃から。でも、その頃は嫌いではないけれど、煙たく感じて距離を置いていましたから」
誰しも、自分自身の内面に起こっていることを、特別な出来事によるドラマに結びつけて解釈をしていることがあります。
また、そのように感情を揺さぶることで、本心や、とある本当のところに気づかせるのでしょう。
あんがい、私たちは、寿命は人・個体それぞれと知りつつも、見送りの餞別の想いとして、憂いているのかもしれません。
昨今は急速に時間の概念が自由になり、高速化したり、ランダム化しています。そのため、死生の認識や年齢・寿命に対する意識にも変革が起こっていきそうです。
ある意味、愉しみなほうに構えていてよいと感じます。
直接、死生に関わることがある方、ふだんの見解の断片としてご参考になれば幸いです。