とある基準をクリアしている「規格」内のものに対して、不良や不具合があるものと考えられる「規格外」は、この対比においてアウト感が強いと思います。
特に日本ではこの「規格」によって世界からも高く評価されてきたものが多いでしょう。一定の「規格」水準があるから概ね安全で安心できる生活があり、人々の流れをスムーズにしています。
「規格」は、システムや大きな枠を構築するには確たる土台となります。
日本の社会や国民性の地盤には、規格を重んずる精神が強いと感じます。世界に誇れる水準ですね。
人が作り出した人工的なものに対して「規格」は質の信頼や安心になりますが、一方では、自然由来なものについても、同じく「規格」にはめてしまう傾向があるようです。
「規格」に従ったほうが有益で理にかなっているものと、「規格」に制限されて本来の強みや本質を発揮できないものがあります。自然界のものは、後者が圧倒的に占めています。
たとえば、心や精神など、「規格」にはめようのないものや実体として存在し得ないものにも、一定の「規格」や基準をあてがってしまうことがあります。
「規格」にはめようとしてうまくゆかないときは、「規格外」の属性のものかもしれません。
たとえば、「あなた」という存在は「規格内」でしょうか?
それとも「規格外」の要素が顕著でしょうか?
もちろん、アウトローという意味ではなく(笑)
このコラムでは、「規格外」を評価する観点をもつと、ユニークな魂を思い出すような事例をご紹介します。観念的な話ではありますが、なるべく事例を交えてわかりやすくお伝えできればと思います。
個性という規格外
「個性」は比較的ロングランの現象で、受け入れやすい「規格外」です。
た、だ、し….それが、自分とは離れたところで起こっている個性であれば….です。
ごく身近なところで、規格からそれたような「個性」を発揮されると、その人物や生き物(ペットなど動物も)に対して「大丈夫だろうか?」「何か困ることなのではないか?」と捉える傾向にあります。
受け入れやすく馴染みやすい個性であればスムーズですが、如何せん個性ゆえに、好みや趣向がまったく合わないものを個性として表現されると、心配や不安になるでしょう。
個性を発している人を理解し受け入れられる人たちだけの集まりであればまだしも、「規格」を重んずるなかで個性を発せられると、その場の収集が難しいのです。
ごく身近なところで個性を問題視するなら、たとえば家族や身内、とりわけ規格外な個性を発揮するお子さんの親御さん方です。両親どちらとも子供の個性を尊重している場合は、その身内やきょうだいが気がかりに思いはじめます。
また、学校の先生や、塾や習い事の先から連絡があったのをきっかけに、「うちの子はみんなと違ってやっていけるのか?」「なにか問題があるんじゃないかしら?」となることが多いようです。
保育園にあがる頃から、Aさんのお子さんは同い歳のまわりの子供たちと反応や行動が違い、クラスのなかで浮いてしまうことが多く、そのたびに、
Aさん「この先ちゃんとみんなと同じようにやっていけるんでしょうか」
と心配が続きました。
家の中ではお子さんの態度に合わせることができても、習い事や受験に備えた塾に入ると、そのたびに小さなトラブルが発生します。先生方から注意めいたことを言われることが少なくないそうです。
ようやく小学受験を控える時期になり、面接などで合格できるかどうか?と心配はつきません。
Aさんのお子さんは、いわゆる個性豊かなタイプです。規格という観点から見ると、「規格外」がベースになり、学校や習い事などの場を通して、最低限大事な規格を会得する、といった格好のようでした。
とかくみんなと同じであること、規格どおりであることが重んじられる場では、ふだんは「子供の個性を伸ばしてあげたい」と心から願っていても、折り合いがつかなくなるでしょう。
単に個性が強いのと、規格外の個性とは、似て非なるものです。
規格外の個性は、我も強いもので、個性を妥協させることは不可能に近いです。しかし、その規格外の個性をうまく発揮できるところにハマると、唯一無二の力になります。規格外の個性を規格にはめようとすると、周囲は、その人(子)を病気にしてしまうか(本当に具合がわるくなる)、病名や症状名などをつけて周囲が受け入れる体制を作らなくてはいけません。
まどろこしいようですが、これは意外にとてもよくある事態です。本当の意味で個性や独自性を受け入れる変遷を経るまで、今しばらく、さまざまな心や精神の疾患名が緩衝材になるのかもしれません。
志麻ヒプノでも、規格外の個性をもった子供さんのご相談は比較的多いのですが、規格外の個性の魂を持つお子さんのほうも、人生を通して工夫と努力を積むなどして、持ち前の規格外の個性を磨く使命があるようです。
親御さんとしては、規格外を受け入れつつ、臨機応変に対応されるのが妥当な様相です。
先に、規格外の個性が身近であるほど、受け入れの難易度があがると書きましたが、最たる身近な存在は自分自身です。自覚している場合もあれば、無自覚に規格外の個性をもっている場合もあるのです。
そんな「あなた」だとしたら….ご自身の規格外に気付き、健やかに個性を発揮しているでしょうか。それとも、規格外の個性がネガティブに働き困っていたり、はたまた、眠ったまま活かされていないのでしょうか?
病気や障害という規格外
近年は、さまざまな身体的な症状、心や精神の障害について、広く受け入れられる土壌ができつつあります。
概ね、人間という生物は、よくわからないもの、得体がしれずどう対処したらよいか想像できないものをとても怖がります。怖がりによって、否定したり、差別したり、無知や無関心を装ったりします。
情報や知識の共有によって(誤認識などはあるものの)、かつては脅威的であった病気や障害に対して、拒絶や否定に近い「規格外」という観念は薄らいできています。
しかし、先入観や、そういうものだろうというイメージからくる規格が、病気や障害そのものを「規格外」としてしまう風潮はまだまだあるように感じます。
良識的には、病気や障害として区分する利得や恩恵があります。特別に必要なケアを施すことが可能です。ただし、この区分けは、実は規格も規格外もない、〈病むことも健康の一部〉という対等なところに意識があればこそ、受け入れ、成り立っている仕組みです。
健康という規格にたいして、病気や障害を規格外に見立ててしまうとき、私たちは、病気や症状そのものを悪者に見立ててしまいます。自分自身の身におこる病気であれ、身近な人や家族、メディアなどに名前のあがる著名人のそれらに対してです。
このあたりは、あえて西洋・東洋と分けると、西洋的な病気や心身障害の考え方による影響かもしれません。
健康な状態のときのあなた(または○○さん)が規格どおりで、病気や障害をもったあなた(または○○さん)が規格外、という観念を抱くのは無意識に近いかもしれません。しかし、この観念が病気や障害を、一旦本質に戻し、エネルギーに変換するポイントを逃してしまうのはもったいないことです。
つまり、病気、症状、障害を規格外として排斥するように眺めてしまうなら、皮肉にも、問題や苦悩として向き合うことが続いてしまいます。
生まれながらに身体の障害、諸症状を持っている人は、周りにさまざまなメッセージをもたらす特別な魂でもあると言います。
先日、「年を取るにつれて、まさかこの病気が自分のところにやって来るの?ってことがあるのよ」と、知人が言っていましたが、人生のなかで健康を害したときは、あなたの魂が、身体の健康の規格について見つめるように促しているのかもしれません。
先鋭的な規格外
一般大衆のなかでは理解されないようなアイディアを持っていたり、理解しがたいとされる行動などは、それは規格外として認められないか、スルーされバカにされる…というのもしばしばあります。
あとから、規格が追いついてくる、といった具合です。
先鋭的な規格外のモノを創る人、表現する人、行動をする人などは、どこか直感的に信念を貫くところがあります。
やがて、それが規格になる(認められる)と疑わずにかかる人も少なくありませんし、研究者や冒険家のようなスピリッツを持っているのが特徴です。
魂主導の使命には、本人をもあがなえいない力が働いているようです。
余談ですが….魂主導の使命を放棄するには、文字通り、魂を売らなければならないでしょう。
ほかにも規格外=Non-Standard(ノン・スタンダード)のカテゴリーはあると思いますが、こちらでは主だったものを挙げてみました。
概ね自由な時代・自由な環境に生まれ育つことを選んだ人生には、「規格」には嵌まらないほうが、伸びやかな魂によって生きることができるように感じます。
少々ややこしいトピックかもしれませんが、何かしらご一考の機会になりましたら幸いです!