最近あまり耳にしないと思うような表現、言い回しはありますか?
時代遅れの懐かしい言い回しを聞くとか、古くも新しくもなく小説などで目にする懐かしい表現などなど、思い当たるでしょうか。
最近のリーディングセッションで登場したワードは、「物怖じ(ものおじ)する」「人怖じ(ひとおじ)する」です。
個人的には、祖父母の世代が「この子は物怖じしないで勇気があるね」「人怖じしてすぐ泣く子だね」と子供らの性格を話すような場面で聞き覚えがあります。
この物怖じする、人怖じする、という気質や態度は、祖父母の時代に限らず、今も非常にポピュラーな心理のひとつです。
漢字で書いてみると、物や人に対する怖れがベースにあります。怖れ(恐れ)のトリックから自由になりつつある(通称)「風の時代」や、より柔軟な世の中にシフトするなかで、この気質や心理はそろそろ卒業してよい方が多いように感じます。
人間関係や行動の面に現れやすい物怖じ、人怖じ、というより、本質的にやや人生観や精神論に偏りますので、そこを踏まえてご自身の物や人に対する怖じ気を探るご参考にしてみてください。
どんなものに物怖じする?
おおよその意味はおわかりと思います。
物怖じをするとは、こわがり、気後れして、何かをする前に過度に不安に感じ躊躇したり、臆病になることです。消極的な態度や自信のなさと繋がります。
物怖じする理由や、物怖じする癖がついてしまったプロセスも、個々人によって差異があるでしょう。
物怖じをしまいと思っても、気が後れることで、行動が伴わなくなります。
よく知らないことだから、あるいは結果を心配してストップすることもあるでしょう。
物怖じしないことと、明らかに物怖じすること、など分類があるかもしれません。
気持ちはポジティブなはずが、なぜか実際は見送ってしまうような物怖じのパターンもあります。
慢性的に物怖じが身につくと、全体的なペースが遅延し、手間がかかる、という状態になり兼ねません。
やりたくないのを自覚しており、物怖じしているフリを続けている、というツワモノタイプも。
どんなときに人怖じする?
物怖じする状態に被りますが、
一般的には、初めて見る相手、よく知らない人に対する、いわゆる人見知りさんです。
苦手なタイプだと思う相手に関わるのを、人怖じするとしたら具体的な相手は思い当たりますか?
相手に慣れるまで時間や交流の手間がかかるタイプも、人怖じがベースにあるようです。
なんらかの経験や、人の話しから「そもそも人間とは怖いものだ」というプログラムがあるかもしれません。
人怖じのなかには、他人や相手ではなく、自分自身に対して怖じる、という深いタイプも。
自由とコントロール
昨年、入社以来の長年勤務していた会社を退職されたSさん。
毎年のイヤーリーディングでは、お仕事、会社関係の人間関係などのテーマが大半でした。日々の当然の仕事の流れは、それらがあることで安定している反面、常に何かしらのプレッシャー、不満、不自由さを抱えておられました。会社にいることの保障として、生活やお金などの安心が得られるという土壌がありました。
そのかわり、それらをキープするために、些細なことから大きなことまで、ご自分でどう太刀振舞ったらよいのか、より良い方法を知らなければなりません。何かをしようと思っても、漠然とした不安から物怖じをしたり、結果を予測して動こうとします。
ところが、退社後、今では家庭での生活を優先し、今後のご自身の生き方をゆっくり眺められるようなゆとりが増えました。
すると、今年の2022年イヤー・リーディングで拝見すると、人的関係全般に対して、物怖じや人怖じすることがないご様子でした。
何より、以前よりSさんのお話しになる声が大きくなっているのです。スッと、ハッキリ、体から声が伸びやかに発せられています。
おそらく、会社にいらした頃は、特に退職前の終盤では、仕事に対しても自分自身に対しても、不自由さを感じておられたようです。そして、その不自由さを、なんとかしたいと、コントロールしようともしていました。
自由な状態でのコントロールと、不自由さからくるコントロールは、出どころが真逆です。後者は怖れやネガティブなエネルギーを軸に取っています。ですから、どうコントロールしようとしても、結局なんらかの怖れが付着してくるのです。
このようなときは、自由を求めてコントロールしようとしても、結局、物怖じ、人怖じしがちになるでしょう。一歩を踏み出そうとして、ついネガティブな方に向きがちです。
他人の目は自分の目?
受験シーズン真っ只中。父親より、母親のほうが子供の合否には気を遣うことが多いようです。もちろん、逆パターンもありますが、家や身内のなかで、誰かしらが受験の心配をする役者が居るものですね。
Bさんはお子さんの小学受験にチャレンジし、この1年の集大成として各学校の受験を親子で乗り越えています。同じクラスの周わりのお子さんたちは合格が決まっていくなかで、まだ進学先が決まっていないと、少しずつ肩身が狭くなるような状態にあります。
合格した組みはまとまって、卒業後の話しに盛り上がり、まるで決まっていない子供たちと一緒に関わるのを避けているかのように感じられます。
どちら側の空気も微妙なものです。
Bさんは、自分と同じように感じるほかの親御さんたちと共感し、もうしばらく受験に臨みます。
Bさん「このモヤモヤした感覚が気になって、何か自分が気後れして、合格した子のみなさんと関われない気持ちがあるのか、やっぱりあちら側が決まっていない子たちと距離を置いているのか、わからなくなってしまって。差別をされていないと思いたいけれど、やっぱり向こうもこちらを避けている気がします」
確かに、どちらの解釈もあり得ます。
ただ、ここであえて波動をあげて状況を達観してみると、新しい展望が見えるかもしれません。
周りの他人からの目を気にしてしまうとき、実は、自分自身の目(自分が自分をどう思うのか、評価するのか)をとても気にして怖れています。なんらかの自分の基準となっている、OK/Not OK の判定に入っています。
他人であれ、自分自身であれ、神様であれ!?何者かに判定されるのは、やっぱり怖れや緊張感があります。
自分から気楽に、相手側に近づいて人怖じせずに確認することができません。あるいは、人怖じせずに、他人を気に留めなくてもよいのかもしれません。
図々しさとの違いは?
真面目な方は、きっと、「物怖じや人怖じしないまま、実は図々しくズカズカと相手に不快な印象を与えてしまわないかしら」などとご心配されるでしょう。
ん?これも、もはや物怖じ、人怖じの口実かもしれません(笑)
誰しもが、怖れのようなものを抱いていて、それによって安全や調整を図ってもいます。
図々しいなどと域を越してしまう人、しまうときは、感性や感度が閾値を越えている可能性があります。
そんなときは、遅かれ早かれ、図々しすぎることを修正するような兆しや指摘が入るはずです。自分自身で早期に気づけばよいですし、何かの助けとして修正するような指摘がはいるでしょう。
時にはエネルギーが大き過ぎて、相手や周りや状況が押されてしまうテリトリーオーバーなアクションを取るようなら、それは図々しさと受け取られるかもしれません。
そこで、エネルギーを引いたり小さくするよりも、たとえば、ご自身の図々しさに見合う場所、人、状況に移行してみるのも一理です。
お悩みモードや心配・慎重派の方、エネルギーが繊細すぎる方は、物怖じ、人怖じしやすい傾向にあります。少し大胆に、自分では図々しいかな、と思うくらいで、ちょうどよい加減の方々が多いように感じます。
過度に物怖じ、人怖じをせず、ご自分の存在エネルギーをのびやかに広げていきましょう!