富士山に登る日は、富士山の全体像を観ることが難しく… この画像は山頂からの雲海です。
今夏、一般登山者最終日に富士山(吉田ルート)に登頂してまいりました。
わたし事ですが、先月末に父が他界しました。
7年前、既に他界した母の命日とは12時間違いということで、なんとなく周りは「天寿を全うしたのだね」という安堵感はあります。
母のときは、葬儀の2日後、気持ち切り替えの富士登山(実際はトレイルで小走りですが)。
今回、父は葬儀や手続き関係が怒涛の如く押し寄せ、気力体力の充電に「富士山パワーをいただかなければ!」と駆け込み登山をした格好です。
前日はいつもより元気そうであったり、「あら、100歳まで頑張れそうだったのに」という言葉をいただくと、消失感は湧いてきますが、いわゆるすべてはタイミングなのかもしれません。
人それぞれのエピソードがあると思います。
今思えば、亡くなる2週間前に、ふっと読み取った情報がありました。本来は家族や身近な人、友人のエネルギーは、緊急性や援助になるとき以外読むことはしません。
父の身近にいた方々は、夏バテ、年齢からくるもの等による食欲不振から体力が落ちており、心配をし始めました。肌艶や顔色などはわるくなく、過去の病歴の数値なども正常で、「痛みや不快感はまったくない」とのこと。
食べることが好きで、味にもわりと煩いほうなのに、水分やよほど口あたりのよいものしか摂らなくなりました。
一方「そろそろお迎えがくるはずなのになぁ」という事を言い出すようになったようです。ネガティブに聞こえるかもしれませんが、わりと高齢の方が自然に口にするような(その年になってわかるような?)境地なのかもしれません。
父の状況を客観的に視てみました。
すると、燻銀のようなシルバーのエネルギーが現れました。それが何を象徴するのか?
当時、8月真夏のせいか、昆虫の「蝉が土の中から這い出して樹に登っていく」プロセスを表しているイメージが現れました。
蝉にとっても、土から出て樹に登る本能がわからず、その工程を進んでいます。
その象徴図と、父の身体的な状態が被りました。
なるほど、私たちが肉体を持って生きている段階の人生は、蝉にとっては地中なのか?と思いました(苦笑)
母の葬儀後の富士登山では、ごちゃごちゃと思考が巡り、標高を上るにつれて雑念が消えていきました。単に空気が薄くなったせいかもしれません。
今夏は、新宿から「富士スバルライン五合目」までのバスの車中で瞑想をした際(手前味噌ですが、オーディオセラピーが役立ちましたー笑)、今回は「自我を掃除する」富士登山のテーマであるという気がしました。
そのせいか、山頂まで父のことも、関連するエピソードもまったくよぎらず、ガシガシと富士山に集中していました。
そもそも、昨年は何度か0号目から五合目まで走っていますが、山頂までの日帰りは4年ぶりです。高地に慣れず、思考にエネルギーが巡らなかったのかもしれません。
年に何度かフルマラソンを走らせてもらっているおかげか、脚は元気で…
文明堂のスポーツ用の?カステラ。高地では袋がパンパンになりますが、カステラの下敷きの紙がなく、バー状で食べやすい。
さすがに九合目あたりから、亀の歩みになりました。
最後の鳥居が遠く感じます。
ご来光タイム以外の山頂は、のどかです。雲海を見ながらひと休み。
最終日は、山頂の売店や神社、郵便局もお休み。山頂のトイレ利用料は300円(低地200円です)。
ちなみに、富士山行きのバスは…海外でした(笑)
報道ほど、軽装な外国人登山者はいませんでしたが。
隣に座っていたオーストラリアの女性は、ハワイを旅行してから日本に来たそうで「緊張している」と言いながらも、猛者に見えました。
旅先や旅行中は「タイミングがよい」と言っていましたが、たしかに、日常のルーティンや固定観念から解放されるせいか、物事の運びがスムーズだと感じる方も多いでしょう。
しかるべきタイミングというか、ある種の間の良さから妥当な時期にお迎えがくると、スムーズな旅行中のように、事象の運びは異様にタイミングがよく、人や物事の巡り合わせが適うように感じます。
さながら、リニアモーターカーで地面から少しだけ浮遊しているかのように。
父は3年9ヶ月余り、居住型のホームでお世話になっており、元気なケアヘルパーのスタッフさん達、看護師さん方からもとてもよくしていただいていました。
結果的に、亡くなる10分前に話をしていてくださった方が、すぐに対応し、救急車を呼んで…そこからは、通院していた馴染みの病院に搬送されたり、そこで会った警察の方や、ご紹介の方々との出会いは、まるでレールがひかれた上を進んでいるようでした。
いわゆる初七日頃まで、零点何秒か、一瞬早く物事や反応が動くこともありました。
なにより、こちらの事情を知らないはずの、何気なく行き交う人たちが、頭を下げたり、物腰がとても丁寧な様子で話かけ、やってくださるような、神妙なことが頻発しました。
この怪奇的にもありがたい現象は、母や、ほかの接点の濃い方の場合にも体験したことがあります。
最初に富士山を登った頃は、ご来光を見るために夜中から朝方にかけて歩きましたので、気温も低く、体力を著しく消耗したものです。
いつの頃からか、日中日帰りで登るようになってからは、荷物軽量、トレランシューズで走れますので、特に下りは楽で楽しいです。
【4年前】上り3時間45分/下り2時間30分
【今年】上り4時間10分/下り1時間50分
実は先のオーストラリア女子とともに、最終の新宿へ帰るバス時刻があり、スピードを上げざるを得ませんでした。
快晴ではないため、五合目からほぼずっと雲の上で下界の景色はあまり見えませんでした。
しかし、めったに風は吹かず、安定した天候で、登山日和といえる一日。八合目頃までは、晴れると突如猛暑です。
特に自然の中においては、同じ場所でも、天気(天の氣・エネルギー)が変われば、まるで別世界ということがありますね。
父と関わりの深かった方々とご挨拶したり、場所に集まると、こちらの感情、気分、エネルギーが大きく変わることを度々実感しました。
日々話をしたり、生活を見守ってくれたスタッフさん方とお会いすると、まるでお互いの身内を亡くしたかのようになりますが、事務的な手続きや役所の方々(あんがい?とても親身な対応をしてくださいます)とは、仕事や商談をしているかのようにケロっとしていられます。
特に、某携帯ショップなどは、非常にクールな対応ですので、むしろこれはこれでありがたかったです。
感情や感性のスイッチが入らず、無機質な対応マニュアルは理にかなっているのかもしれません。
自然のなかと同じように、人の気心といったコミュニケーションは、連携する性質があります。
登山道や山の空気感を辿るように(それほど山や自然に詳しくありませんが)、弔事においては、次の人、次の場面、次の手続きなどに運んでもらえるように認識しました。
究極の、結局、「何も心配はいらない」し、「こうすればよかったのではないか」「こうすべきではないか」という選択を超越した、いたって自然な現象に則っているのかもしれません。
宗教自体は詳しくないのですが、しばしば、神道では「死は穢れ」であるため神社に行くのは控えるという教えがあるようです。
しかしですね….富士山にはしばしば鳥居があるように、元来は神様のお山です。
…. とりあえず障りはなく、心身ともリフレッシュを存分にさせていただきました。
ありがとう富士山!!
富士山関連の景色を2枚。(2015年)
来夏、ほかのルートも含めてMt. 富士に向かいたいと思います!
P.S. 父の話と混在しましたが、富士山パワーのおかげで重たくはないと思います 拝(^^;