エゴ=自我。
「自我や欲があってこそ、人間だもの!」とは言えますが、とりわけスピリチュアル(精神的)にエゴが結びつくと、解りやすくキツくなります。
はた目には解りやすいのですが、スピリチュアル・エゴ(以下、スピ・エゴ)に一旦はまっている当の本人は、それがデフォルト(初期設定)になります。特に、スピ・エゴが集団になると、ヤバい方向に向かいます。ヤバい方向とは、危うく、子供じみた滑稽な景色とでも申しましょうか・・・
なお、日本語英語では、「スピリチュアル」は一つの確立したジャンル・業界のように位置付けられるようになります。時代と共に、精神的なものから娯楽性やアート性も帯びていると感じます。
英語で「スピリチュアル」といえば、宗教です。そして、日本のスピリチュアルも、ポップな宗教的なところはあるように思われます。
仲間やお客様(信者?)を広げるとなると、より俗世の通念であるエゴは自然に伴っていきます。
他のさまざまに人間関係の発生するところと同じように、スピリチュアルなやりとりの中にエゴが増していきます。
適度なエゴは、自我の確立、自己主張、自立として、必要な働きはあるものです。
というわけで、エゴも、スピリチュアルも、それ自体は中立としてあるものに対して、おかしな風に働いているときはそれに気づき、調整、解放できるとよろしいのでしょうね。
今回は、スピ・エゴについて、こんなのあるある、をご紹介していきたいと思います。
これも一つの見立てですので、何かしら見返すきっかけや、危ないスピ・エゴの予防になれば幸いです。
スピ・エゴ① 救わなければならない!
困っている人を見知ると、気になってしまい、助けたくなります。
特徴は、「ある状況から救いたい、助けたい」というより、その困っている人自身を、なんとかしなければ・・・と、一生懸命に考えます。
これは、身内、他人、何らかの縁がある人、問わずです。
救うことで、自然な安堵や幸福感もありますが、それ以上に、やりがいや、達成感があります。
自覚している/無意識のスピ・エゴの違いはありますが、スピ・エゴ自身が救われなかったり困っていたことから救われるような心地よさがあります。
自分の救いを満たすことは、相手も助かることで一石二鳥に思えますが、この感覚は中毒性があり、「相手を救うことで自分が救われる」ことを続けていると、不思議なことに救われた相手は、だんだん不愉快に感じたり、違和感を覚えます。
不思議というか、本来の筋違いなものがあるからでしょう。
以前、サイキック講座の中で「逃避ヒーラー」についてお伝えしたことがありますが、ヒーラーや癒し手にも無償でヒーリングをすることで、相手と自分の癒しをすすめておられる方がおられます。相手との合意が取れていれば問題はないでしょうが、難しいとすれば、「自分を救っていた人は、自分を苦しめるようになる」というシュールな構図にハマりやすい点です。
身内や家族の中でも、良かれと思い、困っている問題から救おうとするときは、スピ・エゴの可能性があります。
親しいからこそ、相手の反応を観察したり、自分にどのようなヘルプを求めているのかを、憶測ではなく現実的に確認することがベターであるようです。
スピ・エゴ② 神聖なるものに繋がりたがる
「神聖なるもの」とは総称ですが、宗教としてのスピリチュアルなら、その宗派の師、グル、経典などでしょう。
おなじみのスピリチュアルであるなら、普通のヒトより意識や知性の高いとされるような存在でしょう。受け取りの誤解がないよう、特定の存在は挙げる必要はないと思い控えますが。
いずれも、肉体や精神をもつ「個」としての自分の存在と、あたかも別人格に存在し、崇拝し、リスペクトするような思いで関わる「対象」「存在」「概念」「価値観」です。
はじめのうちは、真新しく、まるで普段の生活や社会で関わる「存在」や概念と違う特別なものに感じるのかもしれません。
はじめのうち〜暫くは、その違いを愉しみ、探求し、実践し、関わりを深めていく時期があるものですが、ここでスピ・エゴが発揮されていくと、この特別な「存在」に優位性を感じ、そうではない状況との違いにこだわりが強くなっていくようです。
本来、物質としては無形な感覚や精神に対して、物質化したり、社会や生活の営みの中に混乱を起こすような言動に変わっていくと、周りからもそのエゴを解くことは非常に難しくなります。
極端なエゴは、影響や洗脳を受けやすくし、周りにも啓蒙熱がヒートアップします。
スピ・エゴ③ 他人の自由意志に介入する
先の①、② と連動しますが、相手や対象者を救いたいという思いと、「私は神聖が強い。◯◯◯と繋がっている」となると、相手の自由意志や正直な言葉に対して、スピ・エゴはそのままにして置けなくなります。
何せ、自分は「あなた」よりスピが高く、「あなた」より「あなた」をことがわかっているのだから・・・・
言葉に書いてみると極端ですが、相手のことをそのように決めつけていたり、相手の本来の人生を尊重することにいたたまれないと感じてしまいます。
スピ・エゴも人間ですから、いわゆるお節介を働いてしまう程度なら、心情的なレベルで済みますが、(後で書きますが)スピ・エゴが力をつけると、手を出してきて、相手に言うことをきかせるようなコントロール方法を使い始めるものです。
スピ・エゴにハマる事情
主だった3つのスピ・エゴをご紹介しましたが、極端な事例に感じられたかもしれませんね。
スピ・エゴに至るには、やはりそれなりの事情、背景となるポイントがあるようです。もし、ご自身がスピ・エゴに感化されているとしたら、早期に気づかれるとご自身が楽になると思いますので、ここからもう少し紐解き深掘りして参りたいと思います。
基本的に「エゴ=自我」が厄介な側面に発揮されると、「自分勝手」「身勝手」「自分都合」です。全体や双方を尊重するような「自分軸」とは似て非なる状態です。
他人のエゴが自分に向けられたり、エゴイストに振る舞った自分に気づいてしまったときなど、健全な意識からすれば、まぁフツウに、イヤな感じがするでしょう。 笑
エゴは、思い通りにしようとします。
赤ちゃんから幼児(お子さんに寄りますが、4、5歳頃か)に移行する段階で、「自我の芽生え」が起こると、言うことをきかなくなったり、思いを通すために頑張りますよね!
芽生えたエゴは、大人になっても、状況次第で活動します。
ただ、大人のエゴはもう少し複雑でストーリーがあります。
一見すると相手や状況のため。
しかし、本心は自分が良い思いをしたい。得をしたい。認めてもらいたい。楽をしたい。救われたい。などなど。
このくらいは、人情にうちに入る感情、心中でしょうか。
徐々にエゴが強化されるにつれ、人のものを平気で取りはじめます。その中に、相手の自由意志や意見も入りますが、所有物、役割、仕事、権利などにも手を出してくるものです。
エゴが強化されるにつれ、人のものを平気で取りはじめ、慣れは怖いもので、さらには・・・奪いはじめます。
スピ・エゴが生まれる兆しは、主に精神的に(時間、物資的なもの、関係性などに及ぶことも)ゆとりがなく、焦りがあり、立ち止りゆっくりすることも出来ず、葛藤や混乱があり、さらに自分は不幸である、つまらない存在のように感じる、価値がないのではないかと思うような流れがあります。
当の本人としては、なかなか苦しいのです。
心理的な構造を補足しますと、苦しんでいる人は、その苦しみを周りにも伝播していきます。
スピ・エゴにはまっても、幾度か救いや気づきの機会はあるはずです。
しかし、それらの機会も、芽生えはじめたエゴに負けてしまうと、言動にもエゴが増えていきます。
この頃になると、同じような仲間や賛同者や、さらにエゴのエキスパートに引き合いが起こり、エゴに取り込まれる時期を過ごします。
歳月の周期で、自我から脱却したとき、本当に求めていた感情、心境にいたるかもしれません。
エゴが強くなるほど、当事者は生きることがもっと苦しくなります。
苦しみも慣れると、長期サイクルにはまり、抜けようにも抜け方がわからず、エゴの中に留まる時期が続くやもしれません。
どのようなことも、人には計り知れない、その人なりの人生の経験なのでしょうね。
しかし、スピ・エゴは、いわゆる、傲や欲といった人の心の常であり、けして真新しくはありません。
気づくきっかけがあれば、エゴの解放がおすすめです。なぜなら他の部類のエゴよりも、滑稽であり、自他を傷つける可能性が高いからです。
なお、自分自身ではなく、スピ・エゴ、及びその他のエゴ?のお強い人に出逢ったら、それはそれで尊重しつつ、ご自身の精神・心・行動などを見直してみるきっかけにさせてもらうとよろしいでしょう。
もちろん状況によっては、またあなたがパワー満タンであれば、策を講じたり、ユーモアな方法でスピ・エゴのエネルギーを解放できるかもしれませんが。
私自身、先日、久しぶりにスピ・エゴさん方を目撃したように思います。そのおかげ様か、最近聴いていなかった音楽を聴き流すようになり、忘れていた心地よさを味わっています。何かの触媒となった可能性も。
今回は、スピ的にシュールなトピックでもありますが、対人関係の要素としてもご参考になるところがあれば、と思います。