まるで授かっているような能力を、ここでは「自分の能力」と呼ぶことにします。
能力が顕在化していればわかりやすいですが、磨くことで開花したり、潜在的には備えているがずっと埋もれたままの能力も含みます。
授かっている能力の特長は、
「わりと得意」
「他人と較べてスジがいい」
「自然にできるかも」
「磨くと伸び代がある」
「他者からも『能力がある』などと認められること」
「周りが喜んだり発展することに通じるもの」
「その能力がないと自分らしくない」
「能力があることに謙虚である」
などなどです。
ほかにも、ご本人としては、
「能力の有無よりも、その能力を使うことが好き」
「能力を使うと喜びやエネルギーが高まる感覚がある」
「自身で運命や使命だと感じる」
「物心がついた頃からやっていた」
「(意外なところでは)自分にはその能力は無いと思うものの、その能力に惹かれる」
などが挙げられるでしょう。
特に最後の「自分にはその能力はないが・・・」と思い込んでいる人のなかに、強い能力の原石を持っている可能性があります。
後半に挙げたものに該当するほど、その能力や未発掘な能力を使わないことで、恐れを抱く傾向にあります。
この恐れは、
「世間一般に恐れられているものの中で、自分も恐れを認識する」
「よくわからない未知なるもの、予測がつかないことを危惧する」
「自分が授かっている能力や、能力に関連するものを警戒/用心する」
などに転化されて認識する傾向にあります。
能力の発揮を試される「問題」
自己啓発や、内観して自己探求を深めるもののなかに、「自分の力を恐れている」というフレーズがあります。
“もっと力が欲しい!” “力を授けてくれー”と叫ぶ持たざる者からすれば、まるで意味不明かと思いますが、持てる者には珍しくない心理のひとつです。
要するに、自分の力(能力、才能、発揮したらすごい☆パワーなど)を持ちながら、そのまま燻っているために、本気で「自分には能力なんてない」と疑わず、そのために頻繁に「問題」や「悩み」や「課題」に遭遇するというメカニズムが働いています。
また、「自分の力を発揮してはいけない」「発揮したらとんでもないことになる」といった潜在的な思い込みから、いわゆる、「自信がない」「自己不信」「自己否定」などといった心理や性分にも繋がることがあります。
我が心でありながら不可思議なプロセスを経て、性質(性格)や思考パターンを構築するものです。
自分の能力に対する自信のなさは、自分のまわりに「問題」や「悩み」という観念や価値観の景色をリアルに繰り広げます。その問題や悩みから学んだり乗り越えることで自分の能力が引き出される場合と、問題や苦悩によってさらに自信を失い能力の発揮が失せる場合があります。
長い人生のドラマでは、それらが交錯します。
たとえば、自分の授かった能力を発揮するたびに、新たなる問題や課題がやってきて、さらに能力に磨きをかけさせるという具合です。
自分の能力と聞くと、天才や特殊なもの、努力や研磨の成果、生まれながらのもの、などを連想しますが、案外、地味で素晴らしい能力、自分のことゆえに当たり前だと思っていたが周囲からは特別な能力と見なされる、などさまざまです。
もちろん、ひとつだけの能力ではありません。複数の能力が織りなすもの、人生を重ねるごとに変化するようなもの、晩年で急展開するもの・・・かもしれません。
「能力」とは、本質的には「力」〈Strength〉 のニュアンスです。生き抜く強さ、肉体的・精神的に生命力をサポートする力です。
自分の潜在能力が、恐れに変わる
「恐れの正体は、物理的な実態はない」というのは、ときどきコラムなどに書かせていただいています。
でも、怖いと感じるときは、強烈な実態を帯びて、その影響力もしっかり実態を伴います。恐れの強力なパワーは、さながら「引き寄せの法則」のごとく具現化してみせます。
人間の脳はしばしば勘違いをするようで、「○○○」が怖いと思う対象を丁寧に掘り下げてみると、その怖さを引き起こしている大元は自分の中にあります。感情、観念、価値観、思想などが恐れを演出します。
同じものや同じ現象に対して、とても怖がる人と、まったく恐れずむしろ喜ぶ人さえいますね。サイコパスはわかりやすいですが、フツウの人にも、ギャップは少なからずあるものです。
(例:オカルト映画、戦争や破壊、痛み etc)
なお、恐れや怖がることは、身を守る、警戒する、などのプラスの側面もありますし、大きくみれば何らかのプロセスのなかで調和しています。念の為。
昨今はだいぶ霊能力に対する怪しさや不可解さが薄れたと思います。スピリチュアルが庶民的に広がったおかげかと思います。暫く、よからぬ霊感商法などのニュースを聞かないのも幸いです(笑)とはいえ、いわゆる霊現象や、特殊な霊的能力を発揮することには一線を引く人が多いでしょう。
ヒトは、ふだん自分の内側にあるはずのものが、ふぃに表がに現れるととても慌てます。たとえば、一般に、出血や内臓などを目視するのはギョッとすると思います。それと同じで、自分の精神、内在する能力、はたまた魂の次元で起こることが外側の世界に現れると、やはりギョッとするのかもしれません。
ヒトとして自然なことです。
精神世界やスピリチュアルに長らく興味を持ち、そのような情報に耳を傾け、瞑想なども断続的にやっているというYさん。今は、家事や子育てに専業し、その合間に、家族の問題や子育てを通してスピリチュアルを実践されているようです。
ここ最近お子さんのことで揉めることがあり、以前から自分はふっとしたときに説明のつかない奇妙なコワイ体験をしてきたことを思い出したそうです。
Dさん「気のせいかもしれないし、くだらないことかもしれないのですが…
この前、子供と大げんかをしてタクシーに乗ったら、とてもコワイ態度の運転手さんの車で、急いで降りてしまったんです。子供と喧嘩をしたり自分もとてもネガティブで嫌なキモチになっていたので、まるで何かに罰せられたのかと思ってしまって。
似たような経験は以前もあったんです。
そのときも、喧嘩をしてすごい怒っていたときにたまたま乗った運転手さんが、言いのい気味のわるさがあって、へんな音楽を流したり・・・これはなんだ!?という感じでした」
最近では、自分の波長が現象を引き寄せる、と言うエネルギー波動の概念を知っている方も増えていると思いますが、まさにその典型といえそうです。
ただ、Dさんのエネルギーを読ませていただくと…
「それはあなたです」(あなたが起こしている現象)という言葉に変換した情報が出てきました。
引き寄せるとか、自分が招いた事象というより、〈Dさんそのもの〉をタクシードライバーを設定して表に創り出したような具合です。
引き寄せの法則も、言葉的にはどこからから引っ張ってくるようなニュアンスに思われがちですが、場所や時間の移動なくして、ココに創造する、という可能性のメカニズムです。それが短時間に脈略なく起こるほど、物質界においてはまるでワープして引き寄せたように感じられるでしょう。
Dさんは、ご自身では家庭内のことに専念されていることもあり、スピリチュアルや霊的なことに関心がありながらも、「扱いを間違えるとコワイものですよね」「私にはそういう能力は無いと思うので」とおっしゃる方です。
どっこい、Dさんは、むしろ会社勤務などで長時間三次元構造の活動をしておらず、家の中という自由のきく環境にいらっしゃるのもあり、ご自分の霊的な能力は醒めているほうです。
どんな能力も、一般的には自由意志に基づき、自分が使うも使わぬも自由ですが、Dさんの場合は、世俗でいわれるスピリチュアルな情報より本質的な部分で、霊的な感覚から「現実」を表に創る力がお強いと思われます。
このような方は、感情的になると、それを強く相手に表さないときでも、その念を飛ばすという能力も備えておいでです。
本当の意味での「怖さ」をご存知であるのと、タクシーでの怖い体験が「何か罰せられたのかと思った」と無意識におっしゃったのは的を得ています。罰は恐れとセットです。
潜在的に強めに持っている「自分の能力」だからこそ、また恐れも感じていらっしゃるようでした。
能力を持ち得る者の義務
どの能力も然りです。
先の霊的な能力、スピリッツに通じるような芸術的な能力なども、自由意志と言いつつも「持ち得る者の義務」が働くようです。
社会的な権力、財、運、などの長けた能力の方も多いと思います。
Noblesse Oblige([仏]ノブレス・オブリシュ)*という19世紀のフランスで生まれた概念、言葉があります。
当時、「身分や社会的地位の高い者、財産や権力がある者は、それに応じて果たすべき社会的な責任がある」という社会道徳が起こったそうです。現代では、日本でも経営理念や、お店の名前などに見かけます。
それは、宇宙的にももちろん当てはまることです。
自然由来の授かったような能力は、個人の私物と言い切れない周囲のさまざまな恩恵によってもたらされる力でもあります。宇宙的には、「還元・循環の使命や責務」といえそうです。
社会的であれ、宇宙的であれ、自分使いのレベルであれ、能力の大小は問われません!
ただ、今回のコラムのテーマの観点から申すなら、このあなたの「自分の能力」の責務を果たさないと、恐れや怖さが強くなるかも?ということです。「自分の能力」は生命力やパワーですから、発揮し使うことで、あなた自身や周囲にとって生命力や有益なものになります。
物のたとえなら、財を集める能力のある人は、その能力を使う責務があり、それが経済を活況にするでしょう。
笑顔や笑いの才がふつうより長けていたら、それを周りに向けることで、自分も周りも明るくなるでしょう。発揮しないとアナタも暗くなってしまいそうですよね。
スピ的に、持ち得る能力を使うと、魔法(ミラクル)が起こります。
鬱積した能力
自分の授かっている能力を、自分ではおおいに認めようとしているものの、周囲や特定の他者が認めず評価しないとか、むしろ下げずまれ否定されることが強烈に起こると、今度は、その能力で他者や周囲に恐れを与える側にまわるケースがあります。
歴史的に有名な独裁者のエピソードや、極端な思想に結びついた犯罪やテロにもつながる、稀な展開もあります。が、一般人のレベルでも、自分の能力を否定されたところで人生の歩みが止まることはよくあります。
明らかに、倫理的、社会的に能力の誤使用です。しかし、若干、宇宙的にはそういう役回りを担ってしまったのかもしれず・・・見解さまざまです。皮肉にも、その能力の誤使用による影響により、新しい何かをもたらしているのかもしれませんから。
*「高貴さは義務を強制する」「貴族が義務を負う」「位高ければ徳高きを要す」などに訳されるようです(wikipediaほか)