近代的な生活が営まれる環境に一歩踏み込むと、今やいつも監視されている時代になったようです。
いつも誰かから、何かから… 直視ではないにせよ、データのキャプチャとして、見張られている、または見守られている(保護)環境に身を置いているかもしれません。
監視体制は、認識しやすいビジュアルが優勢ですが、音声やほかの描体によるそれらもあるでしょう。
実際、「人が集まると自分の噂や、どう言われているのかが気になります」「職場でどう評価されちえるやら…」と言うクライアントさんもいらっしゃいます。
監視の主が誰であれ、そのような状態やシステムについて、不安、不審(得体が知れない)、緊張、警戒、ストレス、危機感など、さまざまなネガティブエネルギーとして認識することが多いでしょう。
ある意味、テクノロジーのおかげで監視モードが進化したのですが、「監視」というシステムは古えからあるものです。
ただ、それが縦横無尽で、明確でない目的によってどこにどう利用されてしまうのか、ネガティブに想像すると尽きませんね。
保護に匹敵するのか、単に監視されているのか、どちらにせよ、極端に嫌な感覚を抱くときは、自分の中にも自分自身をとても強く監視している存在が活動している可能性があります。
あたかも自分自身を監視しなければならない状況に置かれていたり、習性になっていることもあるでしょう。
自分自身に対して監視モードが常にONである場合、意識的&無意識的に、他者や周りの出来事、価値観、情報などについても、監視モードが常時働いている傾向にあります。
たとえば、監視カメラや防犯カメラのように自動的に働く機械は、それが仕様ですので疲れませんが、人間がこれを行うと、身体に充分なエネルギーが流れなくなり、気が滞ることで、さまざまな不具合を感じます。
すると、さらに自身や周りに対しての監視モードを増設しがちです。
防犯/監視カメラや、組織などの監視体制、時にはごく身近な人たちにより監視されるような関係性は、日常になると、無意識に没入し自覚がなくなります。
ある意味、いつもそれらを考え気にかけていたら、余計に消耗するからなのでしょう。
嫌なことにも慣れる、諦める、受け入れる、妥協する等という、適応能力が人間にはあるようです。
「監視」というワードは一般的には厳しいエネルギーに感じるかもしれませんが、日常や生活においては、「いつも何かを気にしている」という習慣的な態度になります。
起きている時間だけでなく、しばしば寝ている間も睡眠下で作動することがあるでしょう。
あるいは、寝起き前の、目が覚める少し前に意識に浮上し、気にかけていることを想起します。嫌な感覚で目覚める、というものです。
常に、「何かを気にしている」状態は、予定や計画に従ったり、思いつきを採用することなどを、むしろ阻む性質があります。そのため、やろうとしていること、やりたいことが出来なくなったり、気だるく億劫にもなりがちです。
思いつきや閃き、創造的なアイディアは、何かに監視されているモードでは、余裕がなく湧いてきません。
「何かを気にしている」ことが、心配や懸念や警戒などに通じる場合は顕著ですが、一方では、いつも「良いことが起こることを期待している」のも、監視モードが働いている可能性があります。
良いこととそうではないことを、いつも精査しているわけです。
監視というと、やはり、社会や組織、人間関係などが浮かびがちですが、監視元が、宗教的なもの、スピリチュアルな教義、神的な存在であることも、本質は同じと言えるでしょう。
自己に装備してしまっている不要な監視モードを解除したり、自由に操作・調整してよいことを思い出すと、物理的な監視、関係性における監視などから、緊張、ストレス、不快感を感じることが和らぐようです。
そして、むしろ、「誰かが見ていてくれた」とか、「監視データが役立った」など、保護や助けとなる働きかけにシフトするでしょう。