特に家族関係が濃い方は、家族同士の繋がりを。そうでもなく、仕事や地域など特定の分野での関わりが濃いならそちらの人間関係で。恋愛やプライベートな繋がりが濃い方は、感情や愛情にまつわる人たちとの関係をピックアップしてみましょう。
いずれの人との繋がりやエピソードの数々を紐解いてみるなら…結局、誰とも無駄で否定的な出会いや関わりはなかった、ということになりそうです。
どの出会いや関わりも、善悪や固定観念によるラベルを取り除けば、意義や糧が見出せるようです。それと同時に、自分のほうも、相手側に対して、思いのほかに意味や価値のあるエネルギーを及ぼして関わっていることにもなるでしょう。
わたしたちは、とかく心身が疲弊したり、余裕やゆとりがなくなると、善悪に固執したり、意義や利得を得なくては身持ちが修まらないと考えがちです。
余力がないため、自分を守らなければなりません。すると、必要以上に人間関係や相手の存在、共有する経験について、良さや価値を期待します。
これは、契約や利害関係のある人間関係でも、身内同士でも、本質はどうやら同じようです。
すると、本来はお互いに、意義のある、喜ばしい繋がりや関わりの内容があるにせよ、それらはかき消されてしまいます。
多くの方は、育ってきた家族や子供時代に印象深い人間環境によって、人との繋がりを学習しデフォルトにしがちです。
あるいは、今、周りの環境や情報が作りだしている価値基準で、人との繋がりをトレンドに合わせているかもしれません。
前世(受け継いている気質、本性ともいえる)由来やその方の生まれ持ったものが、そのような環境、教育、風習の影響より優ることもあります。
なお、人との繋がりは、表向きに仲が良い、わるい、といった態度を超越しています。
見たとおりの仲の良さと同じような繋がりもありますが、真逆のような、複雑な繋がりも非常によくあります。
ふつうの家族、身内よりも繋がりが濃いKさん一家。外からみると、「いつも一緒にいる」「お互いを助け合っている」と、羨ましがられるようです。
しかし、家族あるあるのとおり、日常ではよく言い合いをしたり、文句をぶつけたり、喧嘩も少なくありません。
誰に対してもそれを見せるわけではないでしょうが、カウンセリングなど特定の場においては、家族の態度に辟易することを吐露されます。
皮肉ではなく、ある意味、本当に仲が良いと言えるのかもしれません。無意識にも受け入れてもらえると信頼しているため、自分の態度を露骨に出したり、言葉をぶつけることができる段階です。
いつの間にか、Kさんご家族とは長いご縁をいただいておりますが、それぞれの家族メンバーは、調子がよいときと、問題を抱えているときが混在されています。
何かしらの問題(課題)を抱えていても、ギリギリ余裕を切り詰めて協力し合い、ぶつかりながらも本意の道を前に進んでいらっしゃいます。
家族や身内の繋がりでは、すでに他界された方々も意外に影響があり続けます。
ときには、直接会ったことがなく先に逝かれた方々や、訳あって関わりの薄かった身内とも、とんでもなく意外なときに、ご自身にとって意義深い繋がりをもたらします。
家族のように身近であると、日常にうもれて、今さら特別な繋がりを見つけにくいかもしれません。
しかし、日常において、ときどきトラブルや課題があるはずです。そんなときは、貴重な繋がりに気づくチャンスかもしれません。
なお、身内、家族の繋がりが濃いがゆえに、その関係から学ぶような方は、社会性や他人との関わりにおいては比較的に楽にクリアする特徴もあります。
これまでの人生で、家族や肉親との縁が薄い、という方も少なくないでしょう。
ちなみに、志麻ヒプノにいらっしゃる方は、家族のどなかと早く/若くしてお別れしているクライアントさんが少なくありません。
血縁関係は薄いが、仕事や活動、恋愛や友人、特定の人間関係が思いあたるようでしたら、DNAや遺伝的な要素は省くにしても、それなりに濃い繋がりを紐解けるものです。
たとえば、「仕事の関係」「利害関係」「人生にお互いが必要な存在」などといった繋がりが顕著に思い当たるなら、その奥には、時にはひねりの効いたご縁が見えてくるかもしれません。
籍を入れた関係ではないが長年同居していて、「お互い大切で必要なパートナー」であるというNさん。
Nさん「わたしのほうが、本当にこの人に出会ってよかったと思っています。結婚じゃなく、子供がいないから成立しているかもしれません」
そんな繋がりをこの先も大切にしていきたいということで、たまたま「故郷の魂に還る」というタイムトラベルセラピーを受けていかれました。体験のなかで、
Nさん「いやいや、私より彼のほうが私を利用している?!」
という驚きの気づきがあったようです。「利用している」とは、利害関係の意味もありながら、
Nさん「私がいつも自分が負担になっているんじゃないか、という重たい思いが強いので、そこを気にするな、ということかもしれないです」
中立な、お互いの役割や関係性や繋がりにこだわらなくてもいい、という示唆のようでした。
同じ相手であっても、繋がり具合は、相手が変われば…状況が違えば…さまざまです。
同じ相手は、あなたと、あなた以外では、態度や関わり具合が違って自然なことです。
むかしから「内弁慶」とか「外ずらがよい」という、言い方ががあります。
使い分けを揶揄していますが、ある意味、使い分けをしているだけでないようです。
ひとりの人間といえども多面的です。相手や繋がり具合が変われば、ふだん表していない資質は、新たに現れます。
とりわけSNSや、メタ的な空間でのコミュニケーションでは、シームレスに可能です。
冒頭の「誰とも無駄で否定的な出会いや関わりはない」という本質的な前提を備えておくと、あなたが誰とどのように関わり、繋がっても、そこには意義のある何かが起こり始めます。
たとえ、わだかまりや、過去として記憶している否定的な出会いや関わりであっても、そこから恐れ、悲しみ、怒り、執着などの重たいエネルギーを除いていくと、ほぼ必ずや…あなたならではの貴重な意義ある繋がりに気がつけるようです。
あんがい、人間関係とは、自分が勝手に/自由/都合よく思い描いているネットワークなのかもしれません。