現代では「自由」の価値が広く尊ばれています。
しかし文脈が変われば、自由はときに不安定さや不信感をもたらすこともあります。
スピリチュアルな領域では、自由意志と自立・解放が結びつき、自己表現や正当な主張を支えるものとして語られることが多いでしょう。
一方で、行動や物理的な自由は、心や精神的な自由とは別の方向に動くことがあり、両者が拮抗してしまう場面もあります。大
切なのは、自分という軸が自由をどう体現するか。その在り方によって、周囲に認められ、安心される自由もあれば、反対に不安定さを招く自由もあるものです。
かねてよりフリーランスやノマドライフが象徴するように、働き方の自由には、その選択を支える自信や覚悟が核として求められます。
とはいえ、自由に見える働き方にも、実際には制約が潜んでいると考えられますね。
自由・不自由の定義は、ある程度社会が自由を保障している環境下では、かなりの部分を「自分の意識がどう捉えるか」によって創り出していると言えるでしょう。
自由な身であっても、不自由さを強く感じながら生きることもある。
反対に、制約の中にあっても、意識の自由を広げて軽やかに生きることもできる。
双方が混在することも珍しくありません。ある出来事には、自由と不自由の要素が複雑に折り重なって存在しています。実存をどう捉えるのかにも関わるでしょう。
セラピーやカウンセリングに来られるクライアントさんの多くも、さまざまな不自由さを抱えていらっしゃいます。
近年とくに多いのは、高齢の親御さんの介護や見守り、子どもの教育や進路、転職や定年によるキャリアの変化、資産の多少に関わらない経済的な事情などです。
無理を強いられているというよりも、「正しい選択をしなければ」「より良い成果を出さなければ」といった、自由と拮抗する状況に置かれている方が多いようです。
しかし、視点を少し変えて問いかけると、協力者が見つかったり、援助やサポートに気づいたり、負担を軽くする選択肢がひらけることがあります。
また、もともと“自由人”の気質をもつ方は、外側の不自由さのなかから貴重な学びや糧を得ることがあります。やがて状況が落ち着くと、外的にも内的にも自由さが回復し、自然と拮抗が薄れていく傾向があります。
次に、自由を求めているにもかかわらず、恐れや不安、自由に関するネガティブな信念体系と深くつながっているケースもあります。
現代の日本では「仕事=経済力=生活」という構造が強く意識されやすいため、働き方の自由が経済的安定を揺るがすとしたら、多くの方にとって現実的ではなくなるでしょう。
これは個人差を超えて、社会全体が共有する集合的な観念でもあります。
また、「自由でいて良いのだろうか」という無意識の罪悪感が湧いてくる方もいます。
自由を楽しむには、それ相応の努力や金銭的ゆとりが必要だと感じてしまうのです。こ
れはもはや民族的な記憶に根ざした観念かもしれません(民俗学はまったく詳しくありませんが、年貢米や納税義務の歴史から来ているのかもしれませんね)。
さまざまな意識体系と繋がりがあるにせよ、歴史的な弾圧からの解放や革命のようなスケールではなく、私たちが日常で求めている自由は、もっと個々の意識の働きによるものです。
もし現在、何らかの不自由さを感じているとしても、それが学びや糧となっている場合、無意識ではすでにその意味を理解し、自然と受け入れているのかもしれません。
では、「不自由と拮抗しない自由」の領域へ向かうタイミングとは、どのような時期なのでしょうか。
その段階では、良い結果や条件を揃えたうえでの「成功」や「幸せ」を求めてはいないことが多いものです。
もちろん、それらを手にする自由にも大きな価値はあります。
しかしここでいう自由は、もっと拡張(この表現が構造上合っているかは不明)、もっと未知の方向へ開いていく自由です。
不自由と拮抗しない自由とは、無限の可能性を感じ取り、それを生かしていく方向性のことです。(ここでは個人ベースですが、集合体レベルでもあり得ます)
「こうなったら成功」「これが叶えば幸せ」といった結果ベースの思考から離れ、不確定さそのものを自由の一部として扱う必要があります。
思い切って“無”に飛び込む必要はありませんが、足元がうっすら見える程度の「大丈夫だろう」*感の中で、遠くの景色を感じたり、縁あるものに触れたりしながら広がっていく自由。そのような質感と言えるでしょう。
そしてこの自由は、実際にその方向へ飛び立ったときにはじめて「これだったのか」と体感できる種類のものです。その質感は人によって唯一無二のものとなります。
自由と不自由、そして“不自由と拮抗しない自由”について述べましたが、単純にどちらが優れているというわけでもありません。
ただ、重たい波動の不自由さに自由が引っ張られることはあります。
そのようなときは、これまでの経験値を発揮し、異なるフェーズの自由に遭遇する機会かもしれません。自由と不自由の境界枠から離脱している可能性もあるでしょう。
それは不自由さと矛盾しない自由なのかもしれません。
*「大丈夫だろう」感覚は人それぞれ、状況によって変わるでしょう。
** 日本語での「自由」には、フリーダム(Freedom)とリバティ(Liberty)があります。「不自由と拮抗しない自由」は、そのどちらとも厳密に絡みにくい意識論や観念論かもしれませんね。




















