「生と死」については哲学や宗教、医学や終末医療などの分野を中心に往年語られてきています。精神世界・魂の世界においては、肉体の死と霊的な死を分けて考えていますが、微妙なニュアンスとしてはさまざまな意見や考えがあるでしょう。
みなさまは、どんな死生観をお持ちでしょうか。
死生観の話題は、たまにコラムに登場します。が、今年はイヤー・リーディングにいらっしゃるクライアントさんで、身近な方が亡くなられたり、ご自身の半生の人生観が終わるような方が多く、「死」という言葉がしばしば出てきますので、今日はテーマに挙げてみることに致しました。
精神世界では、死は新たな生に通じる再生の前触れや、卒業や達成のような節目を表わします。
日常的に考える、悲しみや痛みを連想する物理的な死とは受け止め方が異なります。受け止め方が違うだけで、本質は同じですが、日常の死はあまりにも「失せる」「消える」「無くなる(亡くなる)」部分が強烈に感じられるものです。
(別のコラムにも書きたいと思いますが)今年は禅問答のようなイヤー・リーディングが多いのも特徴です。仏教の意味する禅問答は深いものでしょうが、この禅問答はふつうの私たちが理解するには、少し捻りがきいていて、答えを聞いてもピンとこないとか、「はて、なんの意味だろう」「わかるような、わからないような」「一瞬わかったと思っても、暫くすると忘れてしまう」といった具合です。
確かSさんのリーディング中と記憶しています。
「魂の時計の時刻を読む」というリーディングでは、来年の今頃(2021年末)には、「〈生の中に死があり、死の中に生がある〉という感覚がわかっている」というメッセージがありました。
Sさんも、リーディングをしている私も一瞬「?」でした。
しばしば生と死の境目や、違いを現す観念はありますが。このメッセージは、生と死が表裏一体であり、かつ包括するような境地ですね。
解釈の参考に、少しわかりやすく事例をあげたいと思います。
たとえば、この世に生まれた瞬間から、この世における死はセットになっています。いつかは肉体のおける死はもれなく訪れるでしょう。そういう意味で、生と死はひとつ大きなくくりでもあります。
たとえば、終わりがあるから始まりがありますね。今では肉体を持っていきる一生の間に、ある生き様の自分が終わることで、次の生き方がガラリとスタートする、と感じている人は少なくないでしょう。長生きをすれば、2つどころではないかもしれません。
これは、木々や花のサイクルを観察すると容易に理解できると思います。動物としての人間では、先代がご先祖様になることで子孫が誕生し、個々の肉体は別に(多分絶対)見えると思いますが、死と生のサイクルを紡いでいるのかもしれません。よって、肉体の寿命が短命な時代や民族は、子孫は増えます。長寿な時代や民族は、子孫の数は減っていくでしょう。
ゆくゆく近未来は、某アニメのように機械の体ならぬサイボーグような姿に意識や知性が留まるなら、死生観はまったくシフトしているかもしれません。
先のSさんは「今はなんとなくわかりますが、来年の今頃にはもっと自然にわかり、そういう生き方をしているのかも」とおっしゃっていました。
死生観は、とかく身近に死に直面するようなときに、意識を向けることが多いものです。死というお別れを辛く悲しく感じたり、解放されたような安堵感で受け止めたり、実際はさまざまでしょう。多くは死そのものではなく、そこに至るまでのエピソード、感情的なドラマによって、死生観を描いているようです。
前世や過去世(前世のコレクション)に関心があるときは、今の人生(今世)の今の生き方に「?」マークが浮かんでいるときです。平易にいえば自分探し。「本当の自分は?」「自分らしさ」のコピーがピンと響くようなときでしょうか。
どの自分も自分なのですが、充実感や“らしさ”を感じて活きているときが「本当の自分」なのでしょう。だから、本当の自分で過ごしているときは、「本当の自分」について考えたり、他人と自分や他人同士を比較することに関心がありません。
死生観といえば、時代にも死と生があります。
今まさに、私たちの多くは時代の死を感じはじめていると思います。もちろん、時代の生を予見しているからですね、無意識に?