感覚的な表現になりますが、「自分にとって本当であること」「本当に大切なこと」を見極めたり、感じ分けることが難しいのが〈現代〉の特徴かもしれません。
〈現代〉のくくりが広く、ひと昔前の初期の情報化社会でも、情報が多すぎるためにその識別や精査が難しいと言われていました。年々その情報は、容量だけでなく、速度、利便性があがりました。もはや、知識として記憶・暗記する必要性はどんどん薄らいでいます。
情報はさらに力も存在感もつけていくでしょう。すると、人間らしかった能力、たとえば感覚、感性、感情などは、情報を扱うことに費やされることが増えて、本来の感度が全般的に鈍る傾向にあります。
そこで、また情報のほうが私たちの鈍りつつある能力、感度をカバーしていく・・・であろうというサイクルです。
情報は完全に無機質なものではなく、概ね今のところ人間が介しており、その人間の意図や目的による影響は否めません。
ここ1、2年の行動の制約のせいもあり、情報をとおして擬似体験し、思考や判断することが増えてきています。
その弊害らしきものを、最近のセラピー、セッションで感じることが増えました。
最近のセッションで、たとえば「7チャクラをアップデートする」では、エネルギー(本質)レベルでクライアントさんの問題としていることをワークしていきます。
すると、クライアントご本人が〈問題だと思っていること〉〈問題の原因だと思っていること〉〈問題から解放され(解決)望んでいるビジョン〉のいずれも、本来のクライアントさん自身には無いものだった・・・?! ということが明らかになります。
まるで他人の描いた演目を演じて、役者のように感情的に落ち込んだり、体調をわるくしたり、心が沈んでいるような状態です。
表面では、ご本人はもとより外目にもわかりません。
でも、エネルギーでは、ご本人ではない雑多ものがランダムに入り込んでいて、ご本人はそれが自分であるのだと、思いこんでいます。思い込んでいるために、気づきようがないフシがあります。
本来は、クライアントさん自身で自分のチャクラを視たり感じるなかで進めるセッションですが、非常にお疲れのときはそれが難しいものです。
一次的にショックなことがあったとか、多忙きわなりないとき、などです。そのようなときは、こちらからエネルギーを送って、滞りを流すなどして進めます。
しかし、何事も、うまくゆかない、という段階も、それなりに役割があるプロセスです。
ご自分の体験が進めにくいMさんの第6チャクラの「現状のエネルギー」は、まるで灰色の紙粘土のようなもので頭を覆われている状態でした。
Mさん「本当に頭が働かない感じで、何かに包まれているような感覚が続いています」
電気信号やエネルギーの流れを阻みそうな紙粘土状のものは、妨げつつも、Mさんも守りに入られる性質があるようです。
先々のことを考えて、今やりたいことを我慢したり、「本来ならこうしていた」というご自分の感性にもとづく判断から日常生活にいたるまで、かなりセーブする守りの状態に入らせていました。
そして、その守りにはいるためのもっともらしい通念、常識などが、さまざまな情報を集積したもののようでした。
ときには、情報そのものを自分の考え、希望、本心、叶えたい願望だと、すり替えて認識してしまうことがあります。そのような作為めいたものに触れたときです。これはあんがい、あちらこちらに広がっています。
実際に経験したこと、経験から学んだ体験知識、リアルな感情や感覚を感じるなどの比率が減ってくると、他人や周囲から提供されているものを、自分のそれらだと勘違いします。
たとえば、「◯◯◯はとても流行っている」と知ったことで、実際に自分の好みか、必要なものかよくわからないまま、それを獲得することが優先してしまうようなことです。
回転寿司で流れたきたネタは、自分の今食べたい好物と限らなくても、そのタイミングで流れるようにシステムが組まれていれば、それが自分の本当に食べたいものになってしまったのかもしれません。
情報そのものは、多くのきっかけや有益なものになり得ています。
一方で、それらに頼りきってしまうことで、自分じゃない情報が自分を演じていることが増えていきそうです。
それで一体なにが困るの?
としたら・・・・
情報過多がゆえ、外部からの情報で振り回されているときには、次のような特長があるようです。
① 結局、自分ではわからない
一時的にわかっても、すぐわかななくなり、次の情報などを探し求めるときも含む。
② 何が正解か、どちらが良いのか、有益か、など情報の正誤性ばかり気にする
正しい、間違いを決めるのは、結局は自分の意思や感性や実体験などであることを忘れている可能性があります。
③ 疲れを感じる
情報はエネルギーが詰まっています。自分と相性の異なる波動のエネルギーと長くかかわると、重たくなり疲れます。
④ 時間(ゆとり)が足りなくなる
「時間は感情だ」などという説があるように、時間の観念は主観的なものです。
「自分にとっての本当」であるとき、時間に対して、わたしたちはとても自由です。時間のほうがあわせてくれるような感覚です。
「自分にとっての本当」を、どこか遠くに探しに行ってしまうと・・・「青い鳥」のお話になってしまいますね 笑
なお、このコラムも「情報」のひとつですので、何かしらの「自分にとっての本当」と繋がるきっかけになりましたら幸いです。