下半期リーディングのセッション中に、一般的に該当するパターンを発見することがよくあります。ディテールは人それぞれですが、心理的、精神的(スピリチュアル)、一般の社会でもお馴染みのパターンが明らかになります。
条件が揃えば、誰でもやっているよね、という具合に。
ハートフォーカス(愛情や共感などのエネルギーセンター)のテーマでは、人間関係、自分自身との関わりにおける課題・問題が表れがちです。
その課題・問題ゆえに、「わたし」の人生をうまく発揮できない、ということがよくあります。他者や周りがどうこうではなく、自分自身がもどかしいような、鬱積した感覚です。
ちょうどセッションにいらっしゃる前に、映画の予告トレーラーのように家の問題が浮上したとおっしゃるNさん。
Nさん「私の叔母(母方の妹さん)が電話をしてきて、母方の家のことで揉めている話を聞きました。叔母が叔父のことをとても責めていて・・・。でももう私には直接は関係ないことだし、客観的に聞いていられました。とは言っても、血のつながりはあるし、何かエネルギー的にできることはありますか?」
確かにNさんの「ハイヤー・ハートチャクラ」は、弾力がなく硬くなっている印象がありました。
家からの緊迫感や、「できることがあれば、何かしなければいけない」という責任感も感じられます。
さらに「何かをしたり、しなかったことで、自分がそのことに関わってしまう」という、必要以上に気にかけすぎる習性(くせ)がついてもおられるようです。
Nさん自身のセッションですが、間接的に叔母様と叔父様を拝見すると、「叔父様が他の方々を許せずに心を開けないこと」について、叔母様は改心し仲を回復して欲しいご様子。しかしそれを促すと、今度は叔父様に叔母様が責められてしまうわけです。
これまでご当人方にしか知り得ない出来事、それらの解釈、さらに歳月、時代や暮らしぶりの変化がありますので、たとえ親しい間柄であっても、ご本人の意向は尊重する(認める、リスペクトする)のが妥当のようです。
このような仲裁の仲違いや、良かれと思って伝えたアドバイスによってむしろ感情や関係性を害するケースは多くあります。
少しばかり親しい知人、友人、長年の親友、そしてNさんのような身内や親子きょうだいにも、珍しくありません。
「責める」「何か/誰かのせいにする」は、他の心理的な計らいや、エネルギーの伝搬により、感染性と申しますか、他者を巻き込んだり、拡散する作用があります。
もちろん、当人たちは意図せず、ということが多いのですが。
そもそも、個人による「責める」「非難する」には、潜在的な目的があります。
それは、自分を守るためです。
昔の話や、人の悪口などを言うことで、何か・誰かのせいにしながら、自己防衛を働いている可能性が高いようです。
自己防衛とはいえ、あまりに怖がり屋で防衛心が強すぎると、もっと嫌なことが起こらないように想像し、必要以上に相手や周りを押さえ込んだり、先に潰しにかかることが習性になる人もいます。
特に、致命的な経験があったり、子供の頃や状況的にインパクトが強く残っている場合、責めるに匹敵することを見つけるのが得意になり、まず人や状況を責めることで、自己保身や擁護する構えになります。
「責める」には別パターンがあります。
他人や周囲を責めるのではなく、自分自身を責めるものです。
「罪悪感」や、些細な問題についても「自分のせいだ」「自分のせいになるのではないか」と、責める矛先を自分に向けます。
見た目や態度はまるで逆に見えますが、「責める」対象は変わっても、本質的に全く同じため、状況次第で、罪悪感から行動したり、他者を責めるような態度をとってしまうでしょう。
罪悪感を抱くことで、もっと辛い何かから守らないければならない、本人ぞのみ知るものがあるようです。
ちなみに、罪悪感も他者を責めるのも、ハートセンターには負荷大です。
この「責める」エネルギーから自由に解放されるには、どうしたら良いのか。
自分の側が責めたくなったとき、あるいは自分が責められているような状況になったとき、抜け出すには?です。
前者の場合は、怒りや腹立たしさなどもあるでしょう。
少し冷静になることが可能になったら、お互いの価値観、主張、基準、表現の違いがあることに気がつきつつ、尊重する(または放っておく)ことです。
自分にとっては「相手にとってもこの方が絶対正しいでしょう!」というものがあったとしても、全人類がそうではありませんので(苦笑)。
人それぞれの価値観や主張を尊重し、こちらの楽な態度で向き合うか、関わりの距離を変えるなどして、落ち着きます。それによって、ご自身の方も何か大切な気づきを得る可能性があります。
後者の場合、つまり、自分が責められていると感じ、認識することが起こったら?
こちらもさらに2パターン考えられます。
① そもそも、責められていない?!
相手の言動、態度、関わりの内容で、あたかもあなたが責められた!自分のせいにされた!としても、そうではないのかもしれません。
仕事などで、立場上の責任は取らされたとしても、あなたという存在自体は、それによって守られることがあります。
家庭や近しい関係では、相手の態度やコミュニケーションが攻撃的だとしても、それは、何か本当のことを伝えようとして焦ったり、不器用な方法をとっているのかもしれません。
② 全体の状態を正そうとしている。
中立的に、かつ全体を客観的に観察すると、大きなものを変えるたまに、その歪みとして責められる矛先が向けられたのかもしれません。
ケースバイケースですが、単純に責める・責められたという状況よりも、そもそもなぜそれが起こっているのかと、恐れずに丁寧に考え、一人で抱えかもずに賢明に対処するのがベターです。
一方にエネルギーが多く流れ込むということは、全体のバランスが崩れていると思われます。
個人的な対人関係や、とある出来事における「責める」は、巻き込みや、コントロールの構造が比較的シンプルです。
一方、「責める」「何かのせいにする」ことは、民意や集団を巻き込み、コントロールする、ありがちな手法でもあります。
時代や状況により、一個人としてそのようなウネリに影響を受けることはあり得ますが、そこはさまざまな感情や、誤情報も多く、厄介なものですね。
エネルギー的に現実を創造するパワーが強く重たいため、かなり物質界に影響するものをこしらえます。
そこに煽られてしまうとき、煽動する側にも、潜在的には自分を守りたい、自己防衛しなければならない、周りや(象徴としての)世界は危ないところだ、というサバイバル意識が強く働いているようです。