先日のハロウィン・セミナーでは「ダークサイドな集合意識、闇の信念体系に光を当てる!」という、イベント時期ならではのテーマで、ふだん気づきにくいパターンに焦点を当てました。
普段の暮らしや生き方をクリアに気持ちよいものでありたいために、内側の意識を探っていても、いつの間にか、内側の意識はマインドや思考により不鮮明で鈍いものになります。
それも、あいにく、周りと同調する自然な現象ではありますが。
ハロウィンセミナーは、個人レベルの課題を、それぞれお互いの相乗作用によってクリアにするため、オンラインのグループワークサイズで行いました。
リアルに対面していない状態が、適度にお互いの距離感や共鳴を形成してくれたようです。
ダークサイドや闇と聞けば、それらから離れたいし、自分自身の中にあり身近に関わっているなら、明らかにして解放されたいですよね。
参加者のみなさまは、
「自分の中にも闇があると思っていて、それが何なのか興味がある」
「ふだんは自分の問題ばかりなんとかしようとしてきたので、今回はみなさんとの相乗効果で解放していきたい」
「アクティベーションが面白いと思ったので」
「若い頃は独創的なほうだった。ユニークさを発揮できるような明るさ、自信がもちたい」
そのあたりが参加理由ということでした。
包括的な源に繋がっている人類が、誰しも持っている、正確には、エネルギー的には誰しも繋がり得る、ネット通信網のような闇・ダークサイドの側面。
説明可能な範囲で紐解いてみましょう。
「光と闇」「善と悪」があることを、当たり前の前提のように信じこんでいる、信じ込まされている・・・
ここが、闇、見えてないところ、気づかれないようになっている、という側面です。
「光と闇」「善と悪」という前提を過度に強調することで、自分や周りの直感を信じられないし、恐れのために納得や説明を求めるというプロセスが優位になります。
暗くて見えないというより、盲点なのかもしれません。
盲点の存在に気がつくことで、
「これを信じなさい」「こういうものですよ」「直感は間違っているかもしれない」と、意識を仕向けさせられていると、“薄々と”感じ始めるかもしれません。
みんなが信じているものを一緒に信じないと、孤独で寂しくなってしまうんじゃないか、という恐れや不安がある人々も少なくありません。
こちらのほうが多いかもしれませんし、とりわけ三次元の世界では、それが自然な流れです。
ハロウィン・セミナーでは、「光と闇」「善と悪」というアクティベーションで、分離の意識のディアクティベート(Deactivate : 解除)を試みました。
テーマが大きいので、一度に紐解けるものではないものの、気づきの刺激になるでしょう。
他人に対して善悪のレッテルを張っているなら、自分自身が分離のプログラムに留まってしまいます。
敢えて、今回は
「光と闇、善と悪は、きょうだい」という例えを挙げてみます。
きょうだいがいらっしゃる方は、必ずしも自分のきょうだい関係とは被らないかもしれませんので、これは説明上の構造です。
また、180度近く真逆で明るい人と暗い人は、あんがい分かり合えるもので出会います。
属性として、善のもの、悪のものを極めている関係も、実際によく絡みます。
もう少しわかりやすい別の例は、「裏と表」というラベリングにはなりますが、コインの裏表というぐらい、結局、「光と闇」「善と悪」は全体を見分けているのです。
「闇・悪」であると分類して認識するのが、単純な次元の特徴です。
精妙な意識を認識しない未熟な段階でもあるのですが、この光と闇、善と悪の融合・統合が為されると、見える世界、生き方は大きくシフトします。
闇や悪の現象を、そもそも否定したり取り除こうとすることは、「光や善」と思しきものを強調するほどに、「闇や悪」もデフォルメします。
闇っぽい・光系、善い系統、悪い系。。。 曖昧な括りわけにしても同じです。
おそらく、何かの専門的な分野や活動をされてきている方は、この2つの区分けが、如何ようにも共生していることを認識されているのではないでしょうか。
「そういうものだ」「両者あって当たり前」などと。
これらのミドルゾーンは、人であれば大衆、物事であれば両方を持ち備えた、ある意味バランスをみて動く性質のものです。
余談ですが、ディズニー映画の物語のなかで、相反する主人公たちを盛り上げる、エキストラ的な存在です。敵にまわったり、応援したり、傍観したり・・・といった物語の起承転結によって役回りが変わります。
政治的なことは詳しくわかりませんが、たとえば、政治にも日本の場合は与党・野党と呼ばれ、海外では保守党、民主党、など国家によって複数の主張する政党があります。
独裁的な君主制国家にも、対極のエネルギー的な活動が、時を経て独裁的な統制を揺すりにかかります。
とある政治家の方が、何かの対談のなかで「私たち(各々の政党)は根っこはひとつですから」と、独特のシュールな節で言っておられました。
お互いの異なる主張や方針を越えたところで、根っこは繋がっているという意味にとれます。
国民を騙しているとか、不信を抱かされる嘘という次元ではなく、ルーツがひとつということでしょう。
光と闇、善と悪、が共存していることに気づいていないと、とあるゲームや映画やドラマのなかで、躍起にがんばり続ける状況に長く滞在することになります。
(皮肉などではなく)ゲーム、映画、ドラマ、スポーツ観戦などは、やっぱり華やかで面白いところがあります。
喜怒哀楽もあります。
近年では、メタバースなど仮想現実のなかで、よりリアルにこれらを楽しめるようになってきました。
ただ、このゲームや映画やドラマ、はたまたメタバースの世界にはまったときに、現実とごっちゃな精神状態になるかもしれない、という警鐘が鳴らされています。
たしかに、ゲームの中での対戦者、メタバース空間のゲームの多くは、光と闇、善と悪を続ける展開だから、ですね。
これまでは、戦いや分離する構造の中で、人類の意識が成長し進化するというプロセスが優位に働いてきたのでしょう。個人レベル、世界的レベルで、それは歴史的に明らかですが、ダメージや損失もセットという特徴があります。
遊び方、楽しみ方、生き方のバリエーションが増えても、そこで人の意識の本質が、何をどう捉えるのかは、継承される部分と、次元レベルで進化していく部分があるようです。
ハロウィンのセミナーでは、
ご自身の、いわゆる「闇や悪」に焦点を当てる・・・そこから入る方(参加者さん)もいらっしゃるのですが、それでも、そのプロセスの次には、そもそも「光と闇」「善と悪」の役割や特徴に関心を持てるようになるでしょう。
これは精神論や信条を問うとか、考え方をどうのという思考や外からの学びの領域よりも、感覚や感性で気づき、内側で“わかる”という領域で起こることです。
「光や闇」を、実際に光や闇の状態を観察すると、すぐに実感がわくでしょう。
ずっと、光を眺めていると、眩しくなり目を閉じたくなりますし、しばらく暗いところにいると感覚が冴えて明るさを感じたりします。
明るい人ばかりが集めても、誰かしら暗くなるかもしれないし(笑)
善い行ないや活発な状態を続けすぎると、魔がさしたり、ブレーキを踏むことになります。
ハロウィン・セミナーのなかの、ハロウィン瞑想では、3次元から5次元意識のなかで、ご自身の「闇」と「光」について体験したり見つけていきました。
すると、あぁ、この次元では、これが自分の「闇」「光」なのかとわかっていきます。わからないけれど、抽象的な感覚やまどろむこともあります。
最後にそれらを融合すると、すごいパワーを体感したり(それだけ、「善悪」や「光や闇」の分離にエネルギーを費やしていたわけですから)、楽になったり、開放感や、気が晴れるようなことになったようです。
セミナーは、前半にアクティベーションを行いますが、そちらは、コンピュータの解析言語や、建物やデザインの図面や設計図が普通の人にわからないように、自覚して感じないという参加者さんが多かったです。
でも、それがふつうです!むしろまともです(苦笑)
意識の基盤にあたるところに作用し、その後、瞑想や誘導のヒーリングをおこなったときに、皆さんの意識や気づきがクリアになっているようです!
しばしばリアルな事例で紹介させていただく、戦争と平和も、根は同じです。
平和や保護を極度に主張しすぎて一線を越えると、アクティビスト(テロや過激派)になります。
西側がある時点で力を増すと、東側は、その力を抑えるように牽制します。お互いに制御し合うように。
加害者と被害者同士の関係も、そこだけをフォーカスすると、お互いの持ち札を入れ替えして関わります。
加害者側にとっては、被害者によって被害者になったり、
被害者側にとっては、加害者によって加害者にもなります。
この関係性には、ギャラリー(周囲、大衆、集合意識の価値観などなど)が加わり、なかなか厳しいエネルギーになりますね。
このような構造的な観察は、正しいか、本当か、間違いかなどという思想ではありません。
普段のコミュニケーション、会話、思考、感情などの次元からは、
「へぇ、そうなのかなぁ」
「そんなふうに思ってみたら、自分のなかの闇や嫌なところが楽になったかも」
などと受け止めていただくと、収まりよくなるかと思います。
もし、少し見方が変わったり、何かの「闇」が晴れたと感じるようなら、無意識にも次元の移行に揺さぶりがかかっている?!と言えそうです。