カースト制度といえば、ヒンドゥー教徒の生活や人生を規制する宗教的・社会的な構造としてよく知られています。
中学や高校の社会科で学ぶ際、多くの場合、宗教に基づく身分制度として理解します。
現在もヒンドゥー教徒の多い国、たとえばインドといえば、近代経済社会と宗教的な風習を併せ持つオリエンタルな国です。
民族や歴史的背景を尊重しつつも、カースト制度のインパクトは、海外に住む私たちに強く印象づけられることが多いようです。カースト制度については、後半でもう少し詳しく補足いたします。
さて、先日Kさんのリーディングをしていたところ、
「カースト制度を自分の内側に持っている」
という情報が出てきました。
Kさんは、長年勤めてきたた会社から退職するか、将来の生活に備えて定年まで勤めるべきかを模索されています。
職場では、とても自然にムードメーカーとして、実務や人間関係の緩衝役をこなしておられます。それは決して気を遣いすぎることなく、Kさんらしさから生まれたものでした。
それもそのはず、他者に対して役職や経験、性別を問わず、対等に尊重した関係を上手に築いておられるからでしょう。
職場に限らず、プライベートの関係でも、世間が抱きがちな暗黙の上下関係やランキングに対して客観的であり、温かく受け流してきているようです。
そんなKさんが、自分自身の中に「自分の態度や状況によって分けた、複数のランキング」があるようです。しかも、それはかなり細分化されていました。
カースト制度は身分制度である、という一般的な印象から、
Kさんは「そうなんですか?!私になかに、そんなカースト制度は要らないです」
とおっしゃいました。
確かに、使いわけるには面倒そうですし、エネルギーを消耗することでしょう。
どう対処しようかとさらに透視を進めました。
すると、単純な区分けよりも、より複数の複雑なカースト制度を持っているほうが、実はKさんにとって楽な状態であることが視えてきました。
Kさんのおっしゃるとおり、このカースト制度をいきなり無くしてしまうと、一気に世界観が変わり、収拾がつかなくなるようなのです。
その変化は、ある種より合理的な世界になるものの、これまで基準としてきた物事が全く無価値になるなど、大きな調整が必要となるものです。
特に、組織の中で仕事をしている場合、自分自身のカースト制度を持たないとなると、すべては自分次第で自分の意思が自由に創り出していくという構造変化になります。
それは自由であり、自立も求められるでしょう。自由であることに思いのほか恐れがあるときは、制度から放り出されることを急がなくても良いときです。
ちなみに、カースト制度は、バラモン(司祭者)、クシャトリヤ(王族)、バイシャ(庶民)、シュードラ(隷民)の4つの階層を基礎としています。
その下に不可触民と呼ばれる人々が位置づけられましたが、1950年にインド憲法が制定され、不可触民制は廃止され、さらにカーストに基づく差別も禁止されました。
生まれながらにして職業と結びついたジャーティ(社会集団)の一員として生きていくことが求められ、それぞれのカーストの中で、床屋や洗濯屋など、職業によって細分化されています。
外からカースト制度を眺めると理不尽に思えるかもしれませんが、現在に至るまで、カーストの身分間では政治、経済的な相互依存関係を支えてきた側面があります。
カースト間では、社会の儀礼的な序列関係を結んでおり、単純な身分の上下関係ではない交流が保たれています。
そもそも、ヒンドゥー教やカースト制度の解釈については、西洋側が東洋のオリエンタリズムとして特徴づけたものだと言われています。
私は春に、オリエンタリズムの視座に関するT教授のインド満載な講義を受講させていただきました。そのとき改めて、ヒンドゥー教やインドの風習の中に、色濃い思想を感じました。
丁寧に内部の事情を探究しないと、外の世界からは理解し難いものが多いものです。
「チャクラ」のリーディングや、瞑想のルーツとしての観点からも考えさせられます。
先のKさんのケースに戻ります。
内側に細かいカースト制度があることで、今しばらく、ご自身の中でのバランスを取る側面があると言えるかもしれません。
そもそものご相談であった、仕事を続けるか、続けないかという点については、「その迷いの論点が本質ではない」ということでした。
コーチングのワークをやっていただいても、どちらの選択の先にも利点はあることが、可能性の未来のビジョンとしてあがってきました。
お仕事関係のご相談は非常に多いのですが、どのご相談においても、AかBかという二者択一でや悩まれているケースでは、どちらにするかが問題の焦点ではないことが殆どです。
ご自身には、心底「Aにすべきか、Bにすべきか」と真剣に悩まれています。日常的にも、多くの方が迷いを経験されると思います。
自分の中でAかBかと迷ってしまうときは、何らかの別の価値観や制度などからの影響を受けすぎている可能性があります。
少し別のことをしたり、休息をいれて落ち着いてから判断してもよいでしょう。多くの場合、AとBが違うものに思えても、結局、必要なところには通じていくようです。