コロナ禍をきっかけに、多くの企業がリモートワークに切り替わりました。
それに伴い、働き方だけでなく、仕事や「働くこと」の意味が変わったと感じる方も多いでしょう。
家族との時間や移住など、出社しないことで得られた新たな節目は数多くあります。会社勤務ではない自営の方やエッセンシャルワーカー、専業の主婦(夫)なども、世間におけるサラリーマン/ウーマンのイメージ変化を肌で感じたかもしれません。
ところが、ここ1~2年で徐々に出社体制に戻ろうとする動きが出てきました。
初めはリモートと出社のどちらかを選べたのに、最近は「必ず何日かは出社せよ」という方針が示されたり、全員出社に切り替える話もよく耳にします。
リモートでも十分仕事がこなせると実感していた方にとっては、この流れが逆行に思えて抵抗感を抱くのは当然かもしれません。
実際、リモートワークを前提に子どもの学校や教育方針を考えていたり、交通が不便だが都市を離れて住むことを楽しんでいる方もいます。
また、リモート化前に職場の人間関係で大きなストレスを抱えていた場合、また顔を合わせると思うと気が重くなるのも無理はありません。
結果的に「ライフスタイルに合う仕事へ転職しようか」「年齢的に早期退職も考えようか」といった相談が、男女を問わず増えているようです。
こうしたときに立ちはだかるのが「仕事=お金=生きる」という図式です。
これは近代から現代社会を象徴する構図で、「仕事を辞めれば収入がなくなり、将来生きていけない」というロジックに共感する方も少なくありません。
ただ、その考え方は「自分の思うとおりに生きてはいけない」「自由になることはない」という深い信念体系を起動させる側面もあるようです。
ふだんは自由を感じられても、何らかの条件下で急に「思うように生きられない」「自由になることはない」という思考が働き、自由にしている他者に対して戸惑いや非難の気持ちを持ってしまうこともあります。
この信念体系が動いていると、仕事・お金・生きることに関する新たな発想や手段が見えづらくなります。
限られた選択肢の中で解決しなければという焦りが苦しみを生み、職場の体制が変わったこと自体を自分を追い込む原因だと感じてしまうのです。
実際は、「自由になれない」という思い込みによって自らを窮屈にしているとも言えます。
「自由にはなれない」「思い通りに生きられない」という意識は、古代の奴隷制度や身分階級、宗教上の厳罰、革命や戦争など、歴史的に人々が強い抑圧を受けてきた記憶と結びついている可能性があります。
今の時代を生きる人類のDNAにも、そうした因子が刻まれているのかもしれません。
もちろんほかにも原因は考えられますが、私たちが「これが現実だ」と思っているものは、実は唯一の選択肢とは限らないということです。
もし「もう仕方がない」と思って苦しく感じるときは、ほかの認識方法があることを思い出すとよいでしょう
実際にクライアントさんの事例を見る限り、会社の出社(出勤)要請が、リモートワークそのものを全面的に否定するケースはそれほど多くありません。
出社頻度は増えても、フレックスを拡充したりリモート対応を組み合わせたりして、働き方の自由を尊重しようとする動きも見られます。
一方、数年のリモートワークでテクノロジーや新しい働き方に対応する必要が生じた方もいます。
たとえばKさんは、従来の方法に無意識に固執していたため、便利なツールを活かせずに時間効率を下げていました。
企業ごとに状況は異なりますが、きちんと経営されているところほど全体的な視点に立って指示を出しているようです。
社員側のクライアントさんも、出社体制への切り替えを機に、自分自身のエネルギーや感覚が以前と異なることを感じ始めています。
リモート生活で育まれた暮らし方や趣味、他者との関わり方は、社会においても自分らしく発揮できるエネルギーです。
それは不本意に従う弱い力ではなく、自分の意思で関わる強い力なのです。
不安や恐れから必要以上にリスクを想定し、望まない状態を引き寄せてしまう必要はありません。
近代の統計学から生まれた「決定的な現実」とする考え方は確かに根強いですが、その後、量子論が登場することで決定論は徐々に絶対的ではないものになります。
とはいえ、現代の日本ではまだ「どうせ変わらない」という思考が強い傾向もあるようです。
それが他者や周囲に向けた態度として、たとえば「決めつけ刑事(デカ)」というAC広告などが表しているのかもしれません。窮屈さから自他を苦しめることへの警鐘とも捉えられるでしょう。
もちろん、会社からの出社要請をきっかけに、仕事や生き方をあらためて見直してみるのも一つの方法です。
いずれにしても、ご自分のエネルギーや意志を大切にしながら、柔軟に変化していく道はいつも用意されているものです。