「手抜き」というと、サボりや不良工事など、必要な手間を省いて大事なことをやらないイメージがあります。
「手を抜くな」と言われたら叱られたような気になります。
「手抜き」の語源は囲碁にあるようです。
対戦相手に応戦するように自分の手を打つ(盤の上に石を置く)のではなく、相手の手に惑わされず、全体を見てもっと効率のよいところに打つことを「手を抜く」と言うそうです。
囲碁ではポジティブな作戦です。
打つべきところに手を打たないので・・・そこから転じて、ちゃんとやらない工事や仕事などを手抜きと呼び、ネガティブな比喩になりました。
「手」は使いようですね。
「手」には、さまざまな信念体系が含まれています。
日頃の習慣や観念のエネルギーが詰まっています。ハンドパワーというように、あなた自身や周りにも影響が強いものです。
下半期リーディングでは、実用的なチャクラを13個選んで、この半年に関係する情報を視ていきます。
そのなかに「右手のチャクラ」「左手のチャクラ」があります。
右手は仕事やキャリア、男性エネルギーに関係する情報を象徴し、左手は感情や人間関係、受容や女性エネルギーに関係するテーマを象徴します。
いずれも「手」ですから、何かをコントロール、操作する性質があります。
一年の半分にもなると、お仕事、人間関係をはじめとして、両手はさまざまなことを扱ってきています。どちらの手のエネルギーとも、お疲れモードの方が多いように感じます。
実際には、「手」を物理的に使って作業をしているとは限りませんが、手を打つ(決断、決行、責任をとるなど)ような役割や活動があると、手のチャクラに現れる可能性があります。
また、相手や仲間などの感情や協力などを受け入れるなども、手のたしなみに関係します。
酷使すると、ときには、身体的な手の痛みや、手指の疲労となって現れることもあります。これが肉体レベルの痛みなのか、エネルギーから派生していると見なすかは、どちらともいえます。
春からの人事変更により、職場の人間関係をさばくことに忙しくなってしまったMさん。
役職や仕事内容には含まれていないものの、特に日本の職場おいて仕事上関わる人間関係は、仕事そのものに直結しがちです。
Mさん「スピリチュアルや、本質的な人との関わりのことは何を言われているのかわかるつもりです。でも、そうはいっても、現実の職場にいると、同じように関わるのが難しいです」
確かに、おなじ人、人間関係であっても、組織や社会の中での働きやルールと、世俗を達観した自然(宇宙)の概念では、すりあわせが難しいと感じるでしょう。
社会と自然、日常の人間関係とスピリチュアルな考え方が乖離しているわけではないのですが、そこに一見、線引きがあるように思えてしまうとき、いくつかの古い信念体系が影響している可能性があります。
それは、「これはこういうもの・・・」というラベル付のある教え、観念、常識などです。
このなかには、文化や歴史などたくさんの尊く継承されるものも多々ありますが、おかしなふうに作用すると、物事を難しく苦しくさせる傾向があります。
同じ場である自然(宇宙)にいながら、社会や身近な生活をどう扱ってよいのか困ったり、自分が振り回されているように感じるとき、少し「手を抜いてみる」という方法があります。
いわゆる、手抜き作業の手を抜くと解釈しても由、目前に起こったことに直接反応せず自分の思う手を打つでも由、です。
「適当」に、適宜に、という具合です。
Mさん「アクティベーションのおかげで、結局、先回りして心配することはない、大丈夫なのだとわかってきたのですが。今の状況も、適当で大丈夫なのでしょうか?」
Mさんの場合、「適当」とは、頑張りすぎてこうしなければと奮闘するところから、適当な具合に「手を抜く」を示唆していました。
少し「手を抜く」ことにより、自分の力でなんとかしなければいけない、という不安や怖れに基づく思考体系から解放されます。
令和5年とはいえ、昭和の高度経済成長以降、バブル期のある種のインパクトを引き継いでいます。
物質的な豊かさのために切磋琢磨し、頑張れば結果が出るという強いエネルギーの影響は、過去から引き継いでいるのか、はたまた、いつでも無意識に繋がる次元があるかの如くです。
実年齢はあんがいアバウトなもので、直接当時を経験していない世代の方々も、家族や周りからの影響、あるいは間接的にそのような集合意識にプラグが繋がっていることは珍しくありません。
少し手を抜くことにより、自分でなんとかコントロールしなければいけないという偏ったエゴが休まります。
そして、流れに任せる、自然のはからいによりうまく運ぶようになります。
Kさん「たまに家のことを手伝ってもらうと、〈やった、やった〉と大袈裟にいつまでも言っているんですよ」
と、家人の態度に辟易されていらっしゃるご様子。
Kさんご自身はたとえ体が疲れていて億劫であっても、「やらないと誰もやってくれない」と奮闘されていらっしゃいます。かわりに、ご家族の方、お子さんは・・・
Kさん「休みはぐうたらしていて・・・・頼むと、まぁ、以前よりはやってくれるのですが。手を抜いてやっつけ仕事なんですよね」
特にお子さんについては、社会に出たらそれでは大変なことになるだろうと案じておられるようです。
ご自身には当たり前であっても、過度にきちんとやろうとする方の近くには、なぜか、手抜きの得意な方がいるようです。特に前者にはそう見えてしまいます。
状況的には、それが凹凸のようにバランスを図っているのかもしれませんが。
Kさんの下半期リーディングでは、後半に月ごとのアクティベーションを流すなかで、「不完全ななかに完璧さを見る」アクティべーションを受け取っていただきました。
人や出来事、人生に起こっている状況の何かに反応したり、常に不完全さを見てしまう自動のプログラミングをクリアリングにしていきます。
Kさんご自身は、「呼吸が楽になった」という体感があったようです。
こちらから拝見すると、日々、同じようなことを繰り返して忙しくされている様子です。
少し手を抜いて類似するものを省く…手を抜くことで、ご家族や家のなかの運びが楽になるような印象でした。
しばしば、頑張りすぎる、結果のために厳しく鍛錬しすぎると、手を抜いたり少しサボることに罪悪感を感じてしまうようです。
そのような罪悪感は個人的なものとは限らず、ゆとりがなくなり、心が疲弊(エネルギーが消耗)していることから、手を緩められなくなっているのかもしれません。
また、やらされている感や周囲からの強要が強いと、その圧への反作用が働き、さばりたいほうの手抜きに繋がりがちです。
具体的な誰かや、仕事、勉強からのものに限らず、自分自身で「やらなければ」「やらない自分はダメ」という負荷をかけてしまうほど、いわゆる先延ばしと先延ばしによるストレスになります。
つい頑張りすぎて、無理をしがちな方は、少し手を抜いてみると、恰好な状況を認識できそうです!