「上から目線」とは、一般的に人を見下したような態度や言動のことを言います。
物理的な構造が有意な次元では、これは確かに失礼な印象を与え、横柄さや傲慢さの現れだと捉えられます。
この手の「上から目線」は、同じ次元にありながら、何らかの劣等感を抱えた者がマウントし、ジャッジしているのがあからさまため、周りにもすぐ真意がバレます。
潜在的には、かつて劣等感を与えた対象に、自分の優位性を気付かせたいのですが。
一方、異なる次元、たとえば・・・神様や創造主のような存在や、神格化された存在が、上から民を見下ろすようなことは、むしろ神々しく、ありがたく受け取られるでしょう。守護、保護、泰平などの象徴です。
おのずと率先し、頭を下げたくなるほどです(笑)
同じ位置関係でも、構造のことなる意識世界では、同じ表現の意味合いや解釈が大きく異なり、善悪や優劣が逆転することさえあります。
後者の「上から目線」という俯瞰した意識は、常々、自らに対してや、自分の置かれている状況を把握するのにとても有効です。
ふだんの慣れ親しんだ自分目線ではうまくゆかず、苦しいときは、「上から目線」を採用してみましょう。
自分のこと、おかれている状況が苦しく感じるとき、もしかすると、あなたは自分自身をエゴ(自我)でとらえています。
このエゴは、自分軸や自分センターなどという自己を尊重するものではなく、自己中に理解し、そのために自分も苦しい思いをしています。意識や視野が狭く、偏狭な見方や価値観が優位になりがちです。
逆にいえば、苦しく、しんどいときは、コリ固まったような限定的な世界にロックされている可能性があります。
行動しよう、変えてみようとしても、所詮は限定的なところを右往左往しており…(たぶん青空を見上げることを忘れ?)姿勢は俯き加減になっていることでしょう。
主観的でありながら、まわりのことも、(人間模様があるなら)相手や周りの人々のことも客観視していると、イタい錯角をしていることでしょう。
ちなみに、良心的な主観は、内観し、心や内側の感覚を感じており、クリアな思考が働くはずです。
ときには、客観的にとらえようと、自分の立ち位置を変えてみるなら、主観をはなれた発見があるかもしれません。
ただ、すでに自我に入っていると、たとえば相手の立場に立ちながら、結局は自分の思いこみのなかの相手になりすましてしまう可能性が高いのです。
これはわるいとか、劣っているということではなく、自分の慣れ親しんだ機能を、具合わるく使ってしまっている、というだけなのですが。
コーチング系のセラピーで、「ポジションチェンジ」をしていただくと、悩みにどハマりされている最中のクライアントさんは、ふだんひとりで悶々と考えているものを再現しやすいものです。
イヤーリーディングのタイミングで、ご家族の長年の課題について家族会議があるとおっしゃるKさん。
頻繁に家の仕事も手伝っていることから、各々の発言や態度、日頃のやりとりと同調しており、そこにKさん特有の解釈がはいり、考えれば考えるほど、そもそも答えの出ようのない溝にはまっておられます。
家族を思えばこそ、自分の役割として何をしたらよいのか葛藤があり、肩甲骨や頭、上体全体がバリバリ凝って固まっていらっしゃいます。
Kさん「頭の地肌も硬くなっていて、自分で一生懸命ほぐしてるんですよ(笑)」
肩甲骨が堅くなり動かないときは、自分のハートからではなく役割によって立ち動いている、という特徴があるそうです。(チャック・スペザーノ氏の身体の症状とスピリチュアルな課題を示す著書によれば)
イヤーリーディングの中で「2022年風の時代を動く寅」という、ご自身で誘導体験していただくセクションがあります。
そこで、Kさんの「心から望んでいる境地」をイメージしていただくと、雲の上から高い目線で広い世界を見下ろしている寅の姿が出てきました。寅は動いているような躍動感はないものの、悠然と晴れやかに高い意識から、状況をながめるスタンスをとっています。
自分の役割のために、状況を決めつけてしまうようなことが、Kさんの波動を重たくしているようです。
あえて「上から目線」をとることで、ご家族それそれに任せてよいのだと信頼し、自然な流れに任せるなかで、Kさんならではの働きをするタイミングが用意されたときには適宜動けるようです。
ここで言う「上から目線」は、達観した、楽観的な、自然に委ねる、信頼する、結局なにごとも「大丈夫」である、というベースにあります。
楽観、達観、大丈夫、などがどうも信じがたい、そうはいっても“現実”はうまくゆかないに違いない、と疑うときは、実はおおいに幻想である“現実”に囚われています。我こそがリアルで本物だ!というニセモノの言うことをきいてしまっているかもしれませんね。
一旦「上から目線」から状況を俯瞰すると、課題や問題の所在がわかったり、全体的な景色を知ることで偏りや一面的な解釈をしていたことに気づくことがあります。上から眺めると広々と自由になり、焦りやいきづまりのような感覚はかなり和らぐでしょう。
自分がどうにかしなければいけないという役割が力をもつと、つい独善的になり、公平で平和的には見えなくなってしまいます。平等に、平和的にと思い言いながらも、そのために無理や押し付けをやりがちですね。力みがはいります。先のKさんの体の堅さも然りです。
身体が堅くなるのは、エネルギーの流れの滞りでもあり、体のこわばりや重さに気を取られ、上から目線で眺めるのを放念します。そんなときは、体をほぐしたり労りながら、力みをとるにつれ、自分の思い込みにエネルギーを注ぎすぎていたことに気づくでしょう。
概ね、このような「上から目線」は、地球を上(宇宙)から眺めて丸い惑星に見える様と同じく、平和で穏やかで美しく感じられるでしょう。争いや無秩序なときでさえ、大きな調和の一部であるようです。