周りの変化が大きく、予想外のことや望ましくないことが頻発して、落ち着かず、いつも気が散っている。そんなふうに感じるときは、現実は流動的だと考えるかもしれません。
周りの状況が勝手に流れていて、それに対して自分がついていけない、合わせなければいけない、まさにこちら側も一緒に流されるような感覚です。そして、この流動的な流れにはあらがえず、緊張感、ストレス、不安や危惧が生まれやすくなります。
これでは、「人生は、いつもどうなるかわからないものだ」と、ネガティブな捉え方に傾いていくでしょう。それで、溺れ始めるときのように、焦りや恐怖感が湧いてきます。
ところが、あなたが流されたり振り回されたりしていると主観的に感じるものほど、実は、自分自身がその流動性のカギを持っています。
自分に影響を与える人、状態、時間、さまざまなものごとは、絶対的に定まっていない、ということです。
また、AになったらBになるかもしれない、BになったらCかもしれない、というシミュレーションも固定化していません。「現実」と思しきものは決定づけられていない、と言い切ることはせず(言い切ると、これも決定になる)、このようなことを頭の隅に留めておく、捉え方を緩くしておく、という具合です。
気には留めていても、気にしすぎないというスタンスでいれば、流動的な現実に身を委ねながら、自分もその現実を構成していくことになるでしょう。
日本人は「気にする」というニュアンスを理解していると思いますが、たとえば、必要以上に誰かの顔色をうかがったり、周りの様子をうかがったりするような態度が、エネルギー的には「気にする」=エネルギー的な関わりを持つ、ということになるでしょう。
他人のことを気にすることもあれば、自分自身の何か(コンプレックス、事情、秘密、プライドなどなど)を気にすることもあり、いずれもエネルギー的な関わりになります。
「気にする」とは、内面的な反応に思えることから、個人的な人間関係やエピソードのほうが、影響はありそうに思えるでしょう。
しかし、経済、政治、社会情勢などに関わる動きも、グループ(集団)化することで強まる性質を持ち、多くの人の気や、地域に集まる気(関心、注意など)を集めており、それが本質的には「流動的な」現実を、変えがたいものに固定化していきます。
多くの人たちが「気にする」ことで、集団、組織、地域全体が、よりそちらに傾いていく。そこには、周りの様子をうかがうことが、安定やサバイバル、現状の維持につながる構造があるようです。
個人的なレベルでは、他人から見れば「あなたは気にしすぎだよ」とわかりやすいことでも、自身の生きるスキルとして、「気にする」ことがデフォルトになっていると、そう言われてもなかなか腑に落ちません。「気にしすぎる」=ふつうのモード、になります。
そして、この「気にしすぎる」パワーは、意外に強力な具現化の力を持っています。このパワーは、実は「奇跡を起こす」ほうの望ましい具現化にも、まったく同じように使えるのですが、外部の流動性に主導権を渡しているためか、「気にしすぎ」ているほうにパワーを使いがちになります。
先日、サイキックプロテクションのセッションで、Aさんは、自分が参加しているチーム内のメンバー同士の仲がわるいことを思い出しました(セッションの体験中、記憶がふっと浮かんできました)。
「20人ほどのチームで、その中の2人がバチバチなんです。私はターゲットになっていませんが、私も他のメンバーも、雰囲気をなるべく穏便に保とうとしています。チーム外ではまったく関わりがないし、距離をおいて巻き込まれていないと思うのですが、それでも、何か被ってるんでしょうか」
悩んだり問題視したりはしていないけれど、なぜ、不穏な場にAさん自身もいることになっているんだろう、とお考えのようです。
つまり、自分の場で起こることには、何かご自分のエネルギーが共鳴しているのではないか、という気づきがあるようでした。
「そういえば、チームの集まりから帰ってくると、その場のことを少しだけ思い出します。すると、うっかり物を落として壊したり、ちょっと手を切ってしまったり、という不注意があります。でも、それって関係しています?」
セッション中は、意識が精妙になるため、何気なく浮かんでくることは、何かしら調整や癒しなどにつながるプロセスになっているものです。
そこで、Aさんには、このチーム内の関わりで体験していることの「原点となる経験」につながっていただきました。
「子どもの頃、母親と一緒に買物に行って、そのとき、道を間違えていることは当時の自分にもわかっていたんですが、『道が違う』と母親に言えなかったんです。それで、後からそのことで、めちゃくちゃ母親に怒られたんですが……そのときの道が出てきました」
なぜ、道を間違えていることを言えなかったのか。そのことについて、さらに辿っていくと(中略)、
「母親や周りの大人がいつも機嫌がわるくて、よく文句を言っていたので、顔色をうかがうというか、何か言っても大丈夫かなとか、様子を見てから自分は行動しよう、みたいな性格や行動になっているかもしれないですね。まぁ、子どもたちに不満があるわけではなかったんだろうけど、いつもゴチャゴチャと面倒なことや不満を言ったり、顔に出したりしていた気がします」
Aさんは、今でも実家に対しては、面倒なことにならないよう、なるべく関わらないようにしているとのこと。それで面倒は起こっていないとしても、エネルギー的(本質的)には、「いつも気にしている」わけです。この、単に気にしているだけ、という状態も、精妙なレベルではパワーを持っています。
サバイバル(生き抜くこと)のために、いつも顔色や状況を気にしたり、さらに無難に済ませることやご機嫌を取ることに気を使ったり、自分を守ろうとしたりしていると、日常的に消耗します。
面白いことに、「気にしすぎる」ことにエネルギーや関心を費やしていた方々が、それを手放して、(自分が流動的な現実を扱おうとしなくても)“安心して”流れに任せるだけで、奇跡のような具現化が起こったり、日々、人生の線路が切り替わったりすることがあります。
成り行きや自然に任せて危なくないのか? 不注意なことにならないのか? などと、思考が騒ぐかもしれません。
ただ、流れに任せることは、必要な注意や対処まで手放すことではありません。
エネルギー的に自然で健やかな状態が乱れるときには、注意喚起とも思える事象(兆し)が、繰り返し、わかりやすい形で現れることもあります。ただ、全然違うところに「気にしすぎる」エネルギーを投じていると、その注意喚起をスルーしたり、逆に必要以上に問題視してしまったりするようです。





















